midashi_v.gif 「かも子とけり子」

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 丸谷才一氏は大野晋氏との対談冒頭で、この二人について語っています。

 「式亭三馬の『浮世風呂』に鴨子(カモコ)と鳧子(ケリコ)というアマチュアの女国学者が銭湯でいろいろ論じ合うところがあります。たとえば、けり子が、「鴨子さん、此間は何を御覧じます」と言うと、かも子が「ハイ、うつぼを読返さうと存じてをる所へ、活字本(ウヱジボン)を求めましたから、幸ひに異同を訂(タダ)してをります。さりながら旧冬は何角(ナニカト)用事にさへられまして、俊蔭(トシカゲ)の巻を半過(ナカハ゛スギ)るほどで捨置(ステオキ)ました」と。この言葉づかいが、腹をかかえて笑うしかないくらいおもしろいんですが、この鴨子鳧子という二人の女国学者の名前は、もちろん和歌でよく出てくる「かも」と「けり」に由来してつけた名前ですね。この鴨子と鳧子は両方とも本居信仰に凝っている国学者だということになっています。「かも」と「けり」というのは、こういうときの名前のつけ方にも使われるくらいに、典型的な古典和歌的な言葉なわけですね。ことに「かも」はすごいんで、『百人一首』に「一人かもねん」が二つあるでしょう。

                      柿本人麻呂
 足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねん

                      藤原良経
 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき一人かもねん

 これでは、和歌を詠むなら「かも」を使わなくちゃならないような気持ちになるでしょう。ですから現代人でさえ、和歌と言えば「かも」と「けり」という感じになってしまう。おもしろいことに、二つの結合により「けりかも」という言葉さえあって、これは歌人および和歌を罵って言う言葉なんです。私はこの言葉を字引で見ただけで用例があがってないから、ちょっと怪しいんですが、とにかくこういう言葉があるとすれば、「けり」と「かも」とがいかに和歌の代表的な言葉であったかが、非常にはっきりする。「かも」は近世の和歌でも真淵なんかはずいぶん使っているし、近代和歌では正岡子規も一時期かなり使ったし、会津八一もよく使ってますね。いちばん使っているのは、斎藤茂吉でしょう。茂吉の若い頃の歌に、
 罌粟(ケシ)はたの向うに湖(ウミ)の光りたる信濃のくにに目ざめけるかも
 監房より今しがた来し囚人はわがまへにゐてやや笑めるかも
などがあるんです。戦後の日本の短歌の中でいちばん評判のいい一首を選ぶと、『白き山』の、
 最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
です。これは戦後の茂吉の絶唱ということになっていて、つまり自動的に現代和歌の最高峰ということになっています。(以下略)」

 対談はこの後「かも」と「かな」の比較や、「鴨」も「鳧」も共に鳥の名であることについての丸谷氏の推測などへと入っていく。

【出典】
『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一著。中公文庫。1990年11月。



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