からごころ

 宣長は、徹底して「からごころ」を批判した。儒学批判とは少し違う。あるいは大きく違う。
 儒学者は、自分たちが何を尊んでいるのか、その自覚がある。困るのは、その自覚のない人たちだ。「からごころ」はそんな無自覚の人の心に多く潜んでいるのだ。
 では、「からごころ」とは何だろう。宣長の説明を聞こう。 「漢意」(カラゴコロ)というのは、中国の文化を好み、有り難がることだけを言うのではない。何でもその善悪や是非を論じ、物の理屈を考えようとする、儒学書のような物の考え方全部を指して云うのだ。だから、私は儒学の本など読んでいない、と言う人にも実は「漢意」の影響は及んでいる。なぜなら日本は中国を、またその中心となる儒学を尊重して1,000年にもなるのだから。知らないうちに、私たちの考え方にも「漢意」の影響が及んでいるのだ。(「からごゝろ」『玉勝間』巻1)
 つまり、私たちは「漢意」というサングラスをかけて世の中を見ているようなものだ。サングラスをはずして自分の目(日本人としての目)で世の中を見てみよう、と宣長は提案する。そのための指針となるのが、『古事記』を中心とする日本の古典であった。

 ところで、余談だが、宣長を考え、論じる時に、「宣長」という名前の意味は、なぜ桜が好きなのか、鈴が好きなのか、お墓を二つ造ったのはなぜだ・・ということを問題にする。このCD-ROMでもそれは同じだ。中には深い意味があるものもあるが、一方では好みの問題、つまり好きだからだよ、ということもあるはずだ。
 例えば「鈴屋衣」の意味を問われた宣長は、別に深い意味はありません好みですよと答えている。この言葉の意味をそのまま受け取るわけにもいかないが、忘れてもいけない。
 何にでも意味を求めたくなる、これもまた「からごころ」なのかもしれない。


> >「鈴屋衣」



(C) 本居宣長記念館


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