契沖(ケイチュウ)

 独学する宣長の指針は契沖であった。

 寛永17年(1640)〜元禄14年(1701)2月25日。摂津(大阪府)の人。俗姓下川氏。若い時に真言宗の僧として高野山で修業し、阿闍梨号を得た。一度は大坂生玉の曼陀羅院住職となる。その間に、下河辺長流(シモコウベ・チョウリュウ)と出会い、学問的な示唆を受ける。二人の友情については小林秀雄『本居宣長』第7章に詳しい。「人となり清介、貧に安んじ、素に甘んじ」(「録契沖師遺事」義剛)た契沖は院を出て遍歴をし、室生寺では命を捨てようとしたこともある。その後、和泉国(大阪府)池田万町・伏屋重賢宅に仮寓し、古典を渉猟する。仏教書や和漢の古書に精通した学識で古典を研究し、『勢語臆断』(『伊勢物語』注釈書)、『古今余材抄』(『古今集』注釈書)などの注釈や、仮名遣い研究で優れた業績を残した。中でも、水戸徳川光圀の命で執筆した『万葉代匠記』(『万葉集』注釈書)は、実証的で緻密、しかも創見が多く、後世に大きな影響を与えた。「国学」は本書の成立を以て始まったと言ってよいだろう。

 京都遊学してまもなく、『百人一首改観抄』を読み契沖の学問の虜となった宣長は、この『代匠記』も読みたいと願ったが、入手や借覧は困難で、結局、京都遊学中に見えたのは巻頭部分(『枕詞抄』)だけであった。
 その後も契沖の著作を渉猟は続く。『百人一首改観抄』への宣長の書き入れの中に「契沖ノ説ハ證拠ナキ事イハズ」とある。また『排蘆小舟』で、「近代難波の契沖師此道の学問に通じ、すべて古書を引証し、中古以来の妄説をやぶり、数百年来の非を正し、万葉よりはじめ多くの註解をなして、衆人の惑いをとけり。その著述多けれども、梓行せざれば、知る人まれなり。おしいかな」と契沖を絶賛している。宣長の敬服ぶりがよく窺える。

 宣長にとって研究とは日々更新されていくものである。契沖の学問も例外ではない。実際に、その後師事した真淵は契沖より更に進んでいる。真淵に較べれば契沖は駄馬みたいだと『玉勝間』巻11「後の世ははづかしきものなる事」でいう。しかし、その真淵も後世の目で見ればいまだしという所があると考えていたことは「後釈」と命名された宣長諸著作で明かである。これは事実の究明の問題であり、師への尊敬の念とは全く別である。宣長の場合両者は整然と区別されていた。

 契沖への思いは晩年まで変わらず続いている。契沖の住まいを円珠庵という。64歳の時、大坂を訪れた宣長は円珠庵を訪ねたく思うが、日は暮れて、宿も遠かったので諦めた。そのことはやはり『玉勝間』巻7、契沖の墓誌を載せた所に記される。宣長が念願を達成し、庵を訪れたのはそれから8年後、宣長が没する年の春であった。今なら、近鉄上本町駅から徒歩10分で行ける。

「円珠庵門」

「円珠庵門」

 

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