「桜の花ざかりに、歌よむ友だち、これかれかいつらねて、そこかしこと、見ありきける、かへるさに、見し花どもの事、かたりつゝ来るに、ひとりがいふやう、まろは、歌よまむと、思ひめぐらしける程に、けふの花は、いかに有りけむ、こまやかにも見ずなりぬといへるは、をこがましきやうなれど、まことはたれもさあることゝ、をかしくぞ聞し」
『玉勝間』巻7「ある人の言」
みんなで花見に行ったが、歌を詠もうと一生懸命で、花を見るのを忘れたよ、という門人の話。
鈴屋社中、別の言葉で云えば、宣長のサロンである。ここでは歌会と講釈が中心となった。関心の順序から謂えば、歌会メンバーは、歌の研鑽を怠らず、またその一環として古典の学習も行った。また、学習の合間には、なぞなぞや歌合、狂歌会。そして屋外においては花見に月見と詞藻を豊かにした。宣長サロンの行楽や旅も多くはその一環として行われた。行楽を抜きにして、松坂での宣長は語れない。いや、京都遊学時代もそうだ。『在京日記』も祭礼、行楽、遊行など楽しい記事のオンパレードだ。
さて、松坂では、宣長一行はどこに出かけたのか。代表的な場所を挙げてみよう。
■ 木造(コツクリ)の花見
久居市木造。宝暦10年(1760)2月13日、宣長は木造に桃の花見に行く。当日の『日録』に「十三日、木造の桃花を見にまかる」とある。宣長と同時代の『宝暦咄し』にも「木造桃はやし、毎年花見大賑合(一本頭書・明治末期迄賑ふ)」(『松阪市史』9-174)と書かれている。後に、桃園村と言う地名が出来、今も近畿日本鉄道の駅名で残る。
>>「毎月の宣長さん」2月「香良洲へ参詣・江戸の火事」
■ 香良洲神社
香良洲神社は一志郡香良洲町にある。宝暦10年2月10日の参詣する。寛政9年にも花見に出かけた。その時の歌を集めたのが『香良洲の花見』である。
>>『香良洲の花見』
>>「毎月の宣長さん」2月「香良洲へ参詣・江戸の火事」
■ 山室の時鳥
後に宣長が奥墓を築く「山室山」、松坂から2里ほど離れたこの山も、宣長等には恰好の行楽地であった。
>>「奥墓」
>>「毎月の宣長さん」4月「妙楽寺に遊ぶ」
■ 聴竹庵
明和9年(43歳)八月十五夜、宣長等は聴竹庵で月見をした。当時はこのようにお寺がサロンの会場となった。聴竹庵は松坂西町永昌寺。『松坂権輿雑集』に出る。また『勢国見聞集』に「仏光山永昌寺 西町 禅曹洞宗。本尊大日如来。元和三巳年慶才首座開基。前は聴竹庵と云」とある(『松阪市史』8-253)。
■ 景徳寺
「(安永三年)三月の十日頃阿坂の景徳寺にまうてけるにさくらのこゝかしこ
散のこりたるを見て寺の名を句のかしらにおきてよめる
けふまても いろかかはらて とまれるは くる人有と しりてまちけん」
『石上稿』安永3年
各句の頭を取ると「け・い・と・く・し」、景徳寺だ。
宣長45歳の作。東明山景徳寺は、松阪市小阿坂町。黄檗宗。遠祖本居武久が武功を顕した阿坂城がある枡形山の東の麓にあった。宣長の家でも供物を供えることもあった。
「八月十六日の夜月のおもしろきに思ひかけず鹿嶋元長にあざかの山寺に
行合て物語などしける又の日ふみつくりておこせけるかへし
こゝながら露くもりなき言の葉に又もみ山の月のおも影」
『石上稿』天明元年
宣長52歳。元長は津に生れ、松阪に住んだ医者。『制度通』を宣長に貸し『鉗狂人』を借覧する。横滝寺に碑があった。
一行で行き先を定めかねていたときに宣長が「袖岡山に行こう」と言ったことがあるが、袖岡山もこの景徳寺から『古事記』ゆかりの阿坂神社、阿坂城一帯だ。
「同当(座)十三夜の月見にゆくべき所を横滝か山室かなどそこかしこと
みな人さだめかねたるに
よしさらば野原の露に分ぬれてわが袖岡の月をこそみめ
『石上稿』安永6年
■ 横滝からの眺望
秋の行楽地と言えば、伊勢寺村にある横滝寺がこのあたりでは有名だった。
ここは少し高台で、眺望に優れていた。今の、伊勢自動車道松坂インター津寄りから伊勢湾まで一望の下に見渡せるが、ちょうどそんな感じだろう。しかも泊まることもできたようだ。ちょっと宣長先生一行の後をついていって見よう。
「九月十三夜こよひ横滝といふ山寺の月見にと物しける道にてよめる
みなそゝぐ 魚町出て となみはる(鳥網張る) 坂な井川の 板はしを
いゆき渡り て 薮の里 そがひに見つゝ いなむしろ かわべのみちを
ゆくゆくと かへり見す れば よろしなへ よいほのもりを やゝとほく
さかり来にけり 春霞 井むらのさ との 賎の男が おしね(晩稲)
刈り干す 秋の田を 見つゝゆけば あかねさす 日 もかたぶける
山の端を 我も目にかけ 神風の 伊勢寺すぎて ひとつ松 たてる木陰よ
い別れて 岡べの道を たもとほり しじに生たる はたすすき(旗薄)
しぬ (篠)をおしなへ 露霜に 衣手濡れて 蟹がゆき よこたき山の
月見むと 寒き夕 べに 分け入る我は」 『鈴屋集』年次不詳
この長歌は、魚町の自邸を出た宣長一行は、今なら魚町橋だが、当時はまだないので下手の松坂大橋を渡り、西ノ荘、外五曲あたりであろうか藪の多い里の近くを通り、どんどん進み、ちょっと振り返ると四五百森がもう遠くに見える。井村を過ぎると、まだ稲を干している。一時間ほど歩くと、日も西に傾く頃、いつしか伊勢寺村に入り、一本松(地名)を過ぎて、だんだん山道に入っていく。今の堀坂山の峠、そこから少し分かれたところに横滝寺はある。このように、横滝への道中を、地名を織り込みながら詠んだ作品。年次不詳ではあるが、恐らく横滝寺に泊まった安永5年(1776)だろう。
「九月十三夜こよひ山寺の月見んとてよこ滝といふ所にまかりて
其寺にやどりてこれかれ歌よみける中に山寺月を題にて
のぼりきて見る山寺も月の名も高きこよひの影のさやけさ
山てらの月影見ればすむ人の心くまるゝ谷川の水
山寺に秋の一夜をあかの水くまぬ心もすむ月のかげ
よもすがら月くまなくて千里の外迄も見わたさるゝ所からはましていせの海もたゞ
まへなる垣根のもとに見えたるに
あしがきのまぢかく見えて月影の清きなぎさを(も)庭の池水
よこ滝の山を枕に歌よま(め)ば硯はいせの海もまぢかし
人々夜ふくる迄おきゐて歌あまたよむに
言の葉は(の)猶もかれせぬこよひかな硯のみずの(も)(は)つきのよすがら
ふるきふり
月夜よみ見つゝしをれば足引の山の嵐も寒からなくに
鹿もなく所ときゝつれば耳すましてまてどよふくる迄なかねば
鹿のねのそはぬばかりよすみ渡るこよひの月のみたぬ恨みは
末の句は十三夜の心をこめつ
谷の水松のあらしに今ひとつきかでさびしき棹鹿の声
鹿の音をまつは軒端に声たててさそひがほなるよはの秋風
なくねまつ心づくしもさを鹿のなが妻ごひに思ひやらなん
夜いたうふけてしばしかりねするにめもあはねば
ねられずよ言の葉にのみ聞なれてなれぬ枕の峯の松風
つとめて見渡したる朝ぼらけのけしき又いはんかたなし
横滝の山より見れば横雲も波にわかるゝ明ほののそら
見わたせば朝熊山の朝霧も朝日にはるゝ遠方の空
海の手にとるばかりまぢかくみやるゝに在五中将のふる言思ひ出て我も又
塩がまにいつかきにけん軒近きまがきの嶋を出るつり船」
『石上稿』安永5年
在五中将云々は、『伊勢物語』81段「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ」を踏まえる。
「横滝寺近くからの眺望」
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