midashi_b 講釈

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 「歌会」と共に、松坂での宣長の活動の中心が「講釈」である。
 最初の講釈は、宝暦8年(1758・29歳)夏に、浅原義方の発案で開始した『源氏物語』で、自宅奥座敷を会場に、夕飯後行われた。聴講者は約9名。いずれも嶺松院歌会の会員である。テキストは『源氏物語湖月抄』を使用。式日は2、6、10の日で月に8回から9回。同9年3月からは『伊勢物語』、翌10年には『土佐日記』も日を変えて開講した。
 このような形での古典講釈は以後40年間にわたって松坂で行われる。多い時には殆ど隔日、何かが講じられていたほどだ。

 講義書は、『古今集』が4回、『源氏物語』が3回半、『万葉集』2回半(一時、会読)、『伊勢物語』2回、『百人一首』(「改観抄」)2回、『新古今集』2回、『神代紀』、『職原抄』、『土佐日記』、『枕草子』、『公事根源』、『祝詞式』等、また漢籍『史記』、自著『直毘霊』に及んだ。会読という今のゼミナール形式の講義では、『二十一代集』、『栄華物語』を行った。

 講釈には、日時を知らせる回章(カイショウ)を出すときもある。講釈の日時とその後に参加者の名前が書かれて、その順に回し読みする。だから「回章」だ。参加可能な者は「見ました」と言う印を名前の上に付けるが、都合の悪い者はその理由を書く。
 正月の最初の講義では、一献、つまり酒と肴が出たらしい。三井高蔭の『日記』天明5年1月20日のところに、

「入夜本居講釈出席【源氏上まき】今晩開講了【吸物酒飯出之】亥時帰家」

と書かれる。高蔭が家に帰ったのは今の10時過ぎか。

 また、講釈が終わったら雑談もする。その一部を宣長がメモしたのが『講後談』だ。そこから面白い話などが、後に『玉勝間』にも載せられた。

 聴講者は地元の者が多いが、中には松坂来訪中の者も含まれる。
 寛政年間、宣長も60代になり多忙となると、松坂に来ても講釈の時しかゆっくり話が出来ないよ、と最初に念押しされることがあった。
 千家俊信宛書簡に、

「月ニ九度夜分ノ講尺ノ節々ノ外ハ、日々緩々御咄し申候義ハ致かたく候」(寛政7年2月20日付)
とある。 講釈は歌会と共に、門人たちとの僅かな交友の場でもあった。

 定例の講釈の外、紀州藩松坂両役衆・渋谷氏、石見浜田藩主・松平康定、紀州藩主・徳川治宝、清信院、諸公卿、松坂来訪中の門人・藤井高尚の請いによる特別の講義も行われたことがある。また、名古屋、京都、和歌山では門人の請いにより出張講義も行われた。

 宣長の講釈は上手だったようだ。
 講義の内容は、いくつかの聞書から窺える。聞書には、殿村安守『万葉集聞書』、田中大秀『源氏物語聞書』、『源氏物語鈴屋翁講説聞書』等がある。
 また、講釈や会読、聞書については「こうさく、くわいどく、聞書」(『玉勝間』巻8)にその長短、功罪が書かれる。


【参考文献】
『本居宣長』村岡典嗣著。
『本居宣長の万葉学』大久保正著。


>>「代表的な門人 松坂近郊編」
>>「千家俊信」
>>「こうさく、くわいどく、聞書」
>>「一ヶ月に何回くらい講義をするのか?」
>>「一回の講義のペースは?」
>>「評判上々、御前講釈」
>>「宣長の使った古典のテキスト」
>>『源氏物語聞書』
>>「宣長の一日」
>>「歌会」



(C) 本居宣長記念館


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