midashi_g.gif 九戸(クノヘ)

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 松坂から1,000km以上も離れた地である。

 天正19年(1591)、陸奥国の大名、南部信直の一族・九戸政実(クノヘ・マサザネ)が乱を起こした。直接は南部家との戦いだが、南部家のバックには秀吉がいた。その命を受けて出陣した蒲生氏郷の軍勢の中に宣長の先祖・本居武秀がいた。合戦の舞台となったのは、岩手県二戸市にある九戸城。この近くで哀れ武秀は討ち死にしたという。

 これは、宣長の家の歴史を究明する上で重要なポイントである。宣長は奥州からの来客がある度に、合戦の記録が残らないかと尋ね、探索に腐心した。
 なぜそこまで調べねばならないのか。この人が実在すれば、中世の伊勢国司・北畠氏の家臣である本居家と、宣長の家系が連続することになるためである。
 晩年、宣長の下を訪れた南部藩医・安田道卓も調査を依頼され、配下の者を使って九戸あたりを調べさせ宣長にその報告をしている。
 結局、必死の調査にも関わらず、地元では本居武秀に関わる直接資料は見いだせず、家に伝わる伝承と、実際の合戦の様子の一致など、状況証拠の確認に止まった。

 さて、今から10年前、1991年秋、宣長資料を現地で公開することになり、九戸あたりを調査した。その時のことである。地元の歴史に詳しい人に会い、話を聞いたら、武秀の討ち死にした場所こそ分からぬが、その甲冑や財宝を埋めたのは、あの山に高圧線が見えるだろう、あそこの下だ、本居塚と言うと教えられた。
 これは、宣長時代にはなかった伝説が後に出来たものと思いながら聞いた。



(C) 本居宣長記念館


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