midashi_o.gif 京都の春庭

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 寛政7年(1795)4月5日、春庭(33歳)は針医修行のために上京を予定していたが、病気のため出立は23日になった。青山峠を越え切畑村に立ち寄り療治の後、初瀬、奈良をへて5月1日京に入った。沢真風、平子新兵衛、金糸屋徳兵衛等の世話を受けて中立売油小路西入ル南側、鍵屋又兵衛宅に宿る。ここは皆川淇園の弘道館にも近く、富士谷成章の子・御杖は同じ上京区中立売西洞院西入るの柳川藩邸にいたとされる。

 7月末頃から病気となり、9月末には父の勧めで再び切畑村に療治に行く。10月末からやっと猪川元貞のところで針医を学び始める。やっとというのは、なかなか修行を始めないので宣長がやきもきしていたからだ。この頃、妹飛騨に宛てた春庭の自筆書簡が残っている。京都で世話になっている平子と金糸屋への礼を依頼したものであるが、行は左へ流れ、また定まらない。

  翌8年も京都で修行を続けるが、3月に妹・飛騨が草深家を離縁となったため、春庭は家督を飛騨に譲ることを6月22日付、弟・春村宛書簡で申し出るが、宣長は相続者を変える意思の無いことを伝え、8月4日、春村を上京させて説得する。

 翌9年、正月25日、飛騨が四日市の高尾家に再嫁した。2月11日、美濃が西国巡礼に出る。その時に京都の兄の所にも立ち寄る。3月29日には母・勝も上京し、また松坂の書肆柏屋兵助も上京するが、あるいは帰国を促すためであったのかもしれない。春庭はさらに1,2年の滞在を願うが、父は老境を訴え帰国を願う。閏7月21日、春村が迎えのため上京し、8月2日に京を出立、津の小西春村宅に2泊して、6日帰宅する。

 足立巻一さんは、帰国を渋る春庭の気持ちと、近くに御杖が住んでいたことの関係を想像する。

  「わたしには、いまは区役所に変わりはてた柳川藩邸の一室で、若いふたりの語学者が対座している幻影が浮かぶ。春庭は目を閉じて、御杖が説く成章の語学説に熱く耳を傾けているような気がする。それから、春庭が針医の稽古から帰ったあと、鍵屋の一室でつきそいの久助に『あゆひ抄』や『かざし抄』を読ませ、『装図』をまぶたに描いてしきりに考えこんでいる情景があらわれる。たしかに、春庭にはそのとき富士谷学派、特に成章の語学説を一心に吸収していたのにちがいない。父から早く帰国するようにすすめられながら、もう一、二年滞京を希望した裏には、そんな事情がかくれていたのかもしれない」(『やちまた』上204・足立巻一)

  京都滞在中の春庭に宛てた父・宣長書簡には、気の滅入りがちな息子のために、雅事の話題を伝えたり、また自分の入れ歯の狂歌を送ったりして、少しでも気の晴れるようにと願う親の気持ちが込められている。



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