midashi_g.gif 京都滞在は面白い

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 享和元年4月18日付の春庭宛書簡で宣長は、

「旅宿の事は、先日図を書いた通りだが、大変使い勝手がよく、大変きれいな家で悦んでいる。さて、京都は和歌山滞在とは違ってずいぶん面白い。しかも又、身の回りの世話をする和嘉助が柔和なで良い人物で悦んでいる。食事もずいぶん塩梅良く準備してくれる」と悦んでいる。

 武辺ばった和歌山と違い、やはり京都が宣長には向いている。
 この春庭宛書簡は全集に洩れたので「後鈴屋翁一族門下の遺墨を観て」大西源一氏(『集古』戊辰3号)より再録する。所蔵者は浜田伝右衛門氏。昭和2年春庭百年祭の時の遺墨展に出品された。転載にあたり読点を付した。( )は私見である。

【原文】
 おかつ御(「口」か)中いかゞ候や、又いかうわろく候はは山田へ参り血をぬき候が能候、以上
去る十一日之御状相届令披見候、次第に暑に向候節弥皆々御無事之由悦申候、此方皆々無事に逗留致居申候間御安心可賜候、此間中は方々より門弟中追々上京にて旅宿殊外にぎはひ、大勢にて御座候処、松坂之人々今日京出立に而大阪へ向け帰り申候、大方廿四五日頃には松坂着と被存候、扨津次郎太郎も思ひがけず致上京緩々逢申候而悦申候、是もよき連故今日一しよに立申候、定而無事に帰り可申と存候、此方くはしき様子皆々帰り候節御聞可被成候、
一、此方旅宿之事、先日図を書候而進し候通、至極勝手能、殊外きれい成家に而悦申候、扨京都は若山とうりうとはちがひ申候て甚おもしろく存候事に御座候、扨又和嘉助事も至極にうわに而宜き者に而悦申候、食事も随分あんばい能いたし申候、
一、さき竹ノ弁校合いたし遣し申候、残りは帰国いたし候うへ致校合可申候間此方へ御登せ候に及不申候、此方に而も日々殊外せわしく事多く候へば残り之分は帰り候うへの事と存候、
一、此方天気日々くもりがちにて快晴は京着後やうやう両三日ならでは無御座候、乍去雨はあまり度々はふり不申候、あつさは宿にてはいまだ綿入に而能候、此間迄は殊外朝夕寒くどうぎ綿入ばをりえはなし不申候、二三日は大分あたゝかに成申候、外はあはせに而能候、
一、おいつ定而気丈に候はんと存候、段々げいも出来申候哉、四日市九兵衛より今日書状参候、これもはつおとりのよし嘸難儀と存候、山田留守中かはり候事もなく候や、嘸おのとさひしく候はんと存申候、此度大平へは書状遣し不申候、能々御心得可賜候、植松より定而くはしき返事可致と存候、みなと町へもよくよく御心得可賜候、なほ後より可申進、早々恐惶謹言
   四月十八日                   中衛
 健 亭 様

【解説】
 72歳の宣長は、3月1日和歌山(若山)より帰郷後、席の温まる間もなく同月28日今度は上京し、公卿や門人たちと親しく交わった。この書簡は4月18日に、滞在先の京都から松坂の春庭に宛てたものである。挨拶廻りや歌の好きな隠居相手の若山滞在に較べ、諸国の門人も上京して迎えてくれた京都の楽しさは格別であったか。和嘉助は身の回りの世話をさせるために雇った男であろうが、柔和で食事の段取りもうまくする、ということはむずかしい男を雇って苦労したことも、何度かの旅ではあったのだろう。校正刷りを持って出張に行く、今の大学の先生と変わらない忙しさである。最後には家族への思いやりが窺える。三女能登の夫も同行していたので、伊勢(山田)の留守宅を案じる。外孫の小西次郎太郎は十七歳、「はつおとり」をしたという外孫四日市の高尾安吉太郎と内孫おいつ(伊豆)はやがて二歳である。この書簡の所蔵者は伊豆の婚家の子孫である。湊町は次女美濃である。
 宣長の孫・伊豆は、24歳の文政5年正月23日、松坂平生町の浜田伝右衛門茂敬(31歳)に嫁した。浜田家は江戸店持ち商人。34歳で夫と死別。48歳で短い人生を閉じた。
 寺は松阪中町通称職人町、真如山実相院本覚寺。浄土真宗高田派に属する。墓は山門を入って左手の塋域にある。花崗岩質で、台座は後補のようである。碑面には「釈/如空斎清雲道光居士/雅亮室清風妙婉大姉」、脇に「居士諱茂敬浜田氏本同姓宗寿之子母妙喜道證之姉也故道證以無子養而為嗣称伝右衛門性質沈慎能幹家事天保三年壬辰九月廿二日死歳四十一」「大姉名伊豆本居氏之女道光居士妻也弘化三年丙午二月廿五日没行年四十八歳」裏に「浜田」と刻する。隣には「一得斎深入道證居士/清浄室超常妙倫法尼」の墓もある。
 今も、子孫が墓を守っている。


>>『享和元年上京日記』
>>「本居春庭」
>>「おのが京のやどりの事」



(C) 本居宣長記念館


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