midashi_o.gif 馬嶋明眼院(マジマ・ミョウゲンイン)

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 尾張国海東郡馬嶋(愛知県海部郡大治町)にあった。馬嶋流眼科で知られる。祖は南北朝時代の眼科医・馬嶋清眼(?〜1379)で、もとは医王山薬師寺の塔頭であったが、13世の時に明眼院と改称され、眼科治療院として隆盛を極める。

 春庭が治療を受けた頃の様子は『尾張国名所図会』に載るが、本堂に向かって右手に「男眼疾寮」として「松部屋」など5棟、「女人眼疾寮」として「新桃部屋」など8棟、また別に「療治場」や茶店まであり、規模が大きかったことがうかがえる。近代にいたり寺の規模は縮小したが、馬嶋流眼科の伝統は受け継がれ、子孫の「馬島氏」は眼科医として高名である。

 ちなみに東京国立博物館庭園にある「応挙館」は、もとはこの明眼院の書院。本堂と庫裏が再建された翌1742(寛保2)年に造営。木造平屋瓦葺き、間口15メートル・奥行き9メートル、十八畳二間。床や襖、杉戸に絵が描かれるが、その中に、円山応挙の子犬図がある。目を治療してもらった礼に描いたと伝えられるが、当時から大変な評判だった。尚子の書院は、寺の衰退後、益田鈍翁の所有となり品川御殿山に移築。大師会会場として使用された。鈍翁の晩年、博物館に寄贈され、現在に至っている。

 馬嶋は、宣長門人・大館高門の家からも5km程で、何かと春庭の世話をしたであろう。
 大垣の重門も見舞った

「馬嶋逗留中は、遠方之処度々御尋被下、何より之品々被贈下候由、度々御懇情之至不浅、忝奉存候」
         (寛政3年11月13日大矢重門宛宣長書簡)
 宣長の悲しみは門人の悲しみでもあった。

〔参考〕
「忘れ水探訪」18 長谷義隆・中日新聞夕刊2008年12月4日



>>「大館高門」
>>「大矢重門」



(C) 本居宣長記念館


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