『万葉集』の講釈

 宣長は特に『万葉集』が好きというわけではなかったようだが、『古事記』などを研究する基礎として、また門人の請いもあったのだろう、生涯に2回の講釈を行い、3回目の半ばまで進んだ。

 第1回は、宝暦11年(1761)5月24日、それまでの『枕草子』の講釈を中断し開始した。終わったのは安永2年(1773)12月14日。式日は4の日。
 第2回は会読で安永4年(1775)10月24日から天明6年(1786)10月12日に終わる。
 第3回は天明6年10月22日に始まり、やはり会読であったが、途中、『日記』の寛政2年(1790)3月10日条に、

「此書初会読也、近頃為講釈」
とあり、講釈に変わったらしい。同7年6月3日に巻12が終わった。
 また、同10年2月に鈴屋を訪れた伊豆の門人・竹村茂雄の『宮はしらの日記』23日条に、
「大人の御もとにまうでて、文などの心得がたきところどころ、かつがつとひさだむ、こよひ万葉集をなんよみとくとのたまひけらば、さらばくれつかたにまいらんとて、立かへりぬる、くれ過て例の人(引用者注・橋本稲彦)、宇治の神司なりける人と、三人していでたつ、此人はさる田の神の末にて、今もなみなみのつらにはあらぬが、此ほど古風まなぶとて、こゝにきたり居給ふ也けり、さて、うしのもとに行て、文よみ給ふなど聞はてゝ」
とありその後も継続して開講されていたようだ。


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