midashi_v.gif 「松阪三百年文学史を読む」

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 掲載する資料は、竹清。三村清三郎さんが桜井祐吉氏の本に寄せた一文である。竹清さんは、大西源一氏や桜井祐吉氏、四方弘克氏と三重県史談会を創設し、『三重県史談会誌』(明治43年8月15日創刊)を出した。市井の大学者である。その業績は、青裳堂・日本書誌学大系の中『三村竹清集』で見ることが出来るようになった。この一文は、今では稀覯文献に属すると思われるので敢えて掲載をさせていただく。内容は辛辣であるが、決して古びていない。



  松阪三百年文学史を読む   三村清三郎

私はかう考えてゐる、英雄とか偉人とか云ふものが出てくる、それは必しも孤立して出てくるものでは無い、思ふに当時の要求に応じて出るもので、決して其の人自身の力計りでは無い、周囲の事情が斯かる人を要求してゐる、そこへそういふ素質の人が出て大成するのである、此の故に英雄とか偉人とか云つても、つまり私達進一歩で決して大した隔りがあるものでは無い。
松阪の様な小さな町から天下の鈴屋大人の生れ出たことは誇りではあるが、それは其当時の日本が要求し、其当時の松阪町が斯かる偉人を生むべく養はれて居たと考へられる、決して、鈴屋大人が忽然として松阪町へ出現した訳では無い、鈴屋大人に於ける誇りは即松阪全体の努力の誇りである、此の事は其当時の文運を説かれた櫻井君の文中にも明瞭に見えて居る。
併し其の誇りは過去の誇りであつて昨夜の夢である、現今の松阪人士が空しく過去の夢を物語つた丈では何ンにもならぬ、松阪に第一の鈴屋大人は生れ出たが、第二の鈴屋大人は出られぬと云ふ筈は無い、より以上の偉人が出ても差支ない、時代を洞見する識量を養ひ是れに応ずる精力を尽したらば第二の鈴屋第三の鈴屋が続々出る筈である、これは松阪の諸君の志次第と考へられる、歴史の学は過去の事績を余計に覚えて物識りになる丈では無い、現在に処する道を闡明して、未来を開拓する学である、此に於いてか初めて史学に光彩が生じる、現今世界の行詰りに対し、万般の事、鈴屋大人以上の偉人の出現を切望する。
私見を申せば、私は加茂真淵、の人格には疑を懐いてゐる、人間は一寸遇つただけでも虫のすく人と、虫のすかぬ人とある、私は真淵を深く研究しては居らぬが虫がすかない、なぜと云はれると困るが、師家筋の在満に代つて、ノコノコと我儘殿様の田安宗武へ、僅の扶持だ/\と滾し乍ら出仕したり、妻君を捨てゝ妾を置いたり、妙な上ずつた服装をしたり、女弟子に気上つた名をつけて喜ばせたり、世話になつた枝直と地代の事で気まづくしたり、どうも創業の人だから多少山気も覇気も免かれぬと大目に見ても私は虫がすかぬ、学問の終局は、人格の養成、家庭の和楽、社会の共栄である筈と思ふ、古風に云へば、修身斎家治国平天下である。?外さんなどは学問は学問の為めの学問だと云つてゐた、それなら国学者は日本の古典とか言語とかに関する物識りであれば其れで能事足れりとするのかも知れぬ、若しそうならば真淵は偉い人であるらしいが、人格と云ふ点から云へば、鈴屋大人の方が遙に上であると思はれる、多分鈴屋大人に御目にかゝつたらば花々しい処の無い面白くない人であつたらう、然しそこに温として玉の如く人懐きのする所があつて門人がよく服した、門人をあれ程によく仕立てた人は木下順庵か鈴屋大人であらう。
それから昔は国学者と云へば歌人、漢学者と云へば詩文家と思つて居たが、実は国学者と歌人とは別けねばならぬ、歌人と歌学者とも分けねばならぬ、詩才は天賦である殊によると学者の様に理詰めで行く人は歌も詠めないかも知れぬ、真淵の様な人には名歌もあるが、宣長の様な実体な人は歌は拙い、歌の理屈は言へても作歌は下手で格に合つているだけで詩としての生命が無い歌が多いと思はれる。春庭といふ人も素直な人格の人と思はれる、其妻の壱岐女は、実は春庭の失明当時、鈴屋大人も苦労して春庭の補佐となる様な御嫁さんを物色した時、候補の選に落ちた婦人であつた、あれでは仕方がないと鈴屋大人に見限られた婦人であつた、縁といふものは妙なもので春庭の妻となり、盲人の夫を保護し、家政を料理し乍ら非常に勉強されたものであらう、春庭没後も、とにかく後の鈴屋後室として子弟を教導して居られた、馬琴翁に於ける路女以上に敬意を表したいと思ふ、これを思つても人事は志の如何である、天禀の才といふ事もあるが、志を立てゝ進んで倦まざれば或所までは到達出来るものである。
大平の歌は遙に鈴屋大人より勝れてゐたと思ふ、鈴屋大人が此の人を養嗣にしたのも己れの不得手な所を大平が能くしたのに惚れ込んだのではなかつたか、鈴屋没後春庭家の跡継に就いて面倒があつたらしい、有郷といふ人は出来がよくなかつたと見える、そこで春庭の方では建正か清島を養子にしたい企望があり、大平の方ではそれは迷惑らしく、其間に富樫広蔭の件もあり、色々いきさつがあつた、広蔭は篤実な人であつた、一時本居長平と言つて大平の女熊女のむこになつたかと思ふ、大平は女房縁の薄い人で三人妻君を持つた、それで出来のよかつた息子三人が次から次と若死をしてしまつた、最後に名古屋の貸本屋で狂歌なぞを詠んでゐた男を見付けて養子にした、これが内遠である、始は人も軽侮して居たが内遠の学問は中々確りしてゐるので、後には人も帰服した、これも志次第で学業の成就する例になる。大平春庭両家の問題も大平の三子が没して片付いた、伊藤仁斎東涯両先生の如き至徳の家ですら東涯没後に面倒があつと考へられる資料がある、つまり実力の無い子孫が祖先の余沢に依つて祖先同様の門戸を張らうとする所に悲惨な矛盾を来たす、伊勢店の番頭支配組織とか、名流の養子制度とか云ふ事は之に対して起つたかと認められる、家といふ事を事業といふ事よりも重く見るので斯ういふ事にある、目今では家よりも事業に重きを置く風潮になつたらしい。鈴屋大人以後春庭大平を経ての松阪は失礼乍ら大風の吹いたあとの様で僅に閨秀歌人式部を出したのと、石薬師の佐々木弘綱が暫くこゝに居た位のものである。
俳諧は伊勢は本場である、随て松阪から有数な俳人が輩出してゐる、此事は櫻井君が詳説してゐるから略する、松阪の素因と茨木素因とは同号異人かと思ふ、茨木素因は津藩士で有名な茨木騒動の家である。
馬琴の親友として殿村安守のある事は櫻井君も説かれた、鈴屋門ではあり、国学に関する著書もあるが、つまり金持の旦那藝で、櫻井君の言はれた通り馬琴に対する批評家の地位に立たれた事が安守としての価値である、馬琴に対する批評家としては、まだ外に木村黙老とか石川畳翠とかがあるが、最も馬琴に同情がありよく馬琴を理解した点で安守が一等であり、亦馬琴も此人の批評が一番胸へヒシと来たらしいので、此の人の評語に勇んで筆を執つた。然し安守は決して馬琴の為に巨資を投じて出版を援けてはゐない、其当時の出版事情は今日とは大分違ふし、実は馬琴の原稿は版元で引張凧であつた、安守が御世話申す余地が無い、而巳ならず堅偏屈なあの馬琴は一文でも余分の金は貰はない、仮令草双紙の代金でも一々明細に計算してゐる、金銭としては盆正に年玉中元を一朱か二朱貰つてゐる、これも一々返礼をしてゐる、馬琴が老て窮迫した頃、多少蔵書を買つて貰つてゐるが、それも世間相場以上には貰つては居らぬ、唯馬琴は自分の手沢の存する書を知らぬ人の手に委するよりは知人に持つて貰ひたかつたのである、殿村安守宛の馬琴の手紙の一部分でさへ癸亥地震以前東京で買価一万円と号して居た、此間京都の入札へ出た返魂余紙と言ふ馬琴が拵へた張込みの巻物二巻、只馬琴のかきこみがある丈けのもので貳千貳百十円で書賈が落札して居る金銭上から云へば安守の方が馬琴から貰つてゐる姿になる。唯狷介世と容れぬ馬琴に好意を持つてゐる体度が、非常に馬琴を慰めたと見たい、馬琴も温厚長者の風ありと安守を欽慕してゐる、琴魚は安守の手代の事務を執つて居た、馬琴も御義理に弟子にして居たらしい、琴魚は江戸にも大阪にも業務上出張してゐた、松阪札(紙幣)は殿村氏と外の人との合同事業ではあるが、重に安守が擔任して居たと見え、あの札の木版は上中下に別ち、一々別の板木師へ琴魚が註文して彫刻させてゐる、それは大阪出張中の事である。
松阪の漢学は誠に貧しかつた。櫻井君が津藩の学事を記して、東陽敬所三角竹pと記されたが、これは書き方が穏ではなかつた、三角は有造館以前の御儒者であるし敬所は御客分である、別記して欲しかつた、敬所は日本の経学者であり最も三礼に精しく東陽も亦有数な博学であつた。
松阪では私は赤須道人を挙げたい、これは真台寺四代の住職で名は猛火、字は明了、小字は勝と申された、真台寺は真宗であると覚える、御念仏さへ一つ申せば極楽と云ふ旨い所へ行けると、善男善女の頬ぺたを牡丹餅で叩いて御座る大安買宗の坊様かと思つたら、赤須上人は豪傑の風があつた、名を猛火といふ位に気性がはげしく、熊野三山などを跋渉し、嘗ては高葛坡(かうかつぴ)が義理を失したとて絶好をした位である、よく外典に通暁し、中にも老荘に精しかつた、南宮大湫や涌蓮や蕭白と友達であつた、文字は荒木是水の流で中々佳ひ、赤須真人詩集七巻計り刊行されてゐると思ふ、天明八年五月廿九日七十三で逝くなられた、法号は東海院明了白延上人と云ふ、此の上人に次いで悟心と終南とを松阪の三詩僧と云ふ、悟心は松本駄堂翁の子で詩書印共に善い天明五年七月廿七日に示寂され墓は相可の法泉寺にある、終南名は浄寿、号は介石とも檗林道者とも云ふ、書家の伊藤益道の弟で、つまり恒庵の叔父に当る、一に小島氏ともある、黄檗の南嶺さんの法嗣になる、明和四年八月二十二日五十七歳で示寂された。
介石遺稿二冊これは文集であるが刊行されてゐる、詩集まだ偶目せぬ。鈴屋大人の和歌の手ほどきは山田の法幢和尚であるといふので一志郡の法幢上人と間違ふ、この一志郡の法幢は赤須門下である、私は此の詩僧を逸し難いと思ふ、徳川氏の代、僧と医とは世外の民であつて文学芸術に親しみ易い地位に在つた、加之松阪には殿村安守の如き袖手徒食と申ては悪いが、不労所得に衣食してゐる有閑階級が多かつた、文学は先づ此れ等の人々に因つて半ば道楽的に発達させられてゐる、其裡から真剣に、天品のある人が台頭してくるのであるから、私は血眼になつて所謂富豪は責め無い、東京でも富豪の大庭園が介在してゐるので空気も幾分浄まり、火災の予防にもなるのに無闇と開放させるのは愚策と思ふ、無用の用といふ事を知らねばなるまい。
何にしても三百年来松阪は多士斎々である、此等の文学の士以外に芸術の士もあり、歌学の士地文の士、将又経済方面に於ては、江戸開府当時、江戸文明に貢献し併て伊勢店を築き上げ伊勢屋の暖簾で売出した人々も多いと思ふ、或は此等商人の力の方が文学芸術の社会に寄与した力よりも偉大であつたかも知れぬ。 何にいたせ、懐古が懐古に止まつて居ては、夢を見てゐる丈である、古を以て今の鑑として発憤努力して行く所に始めて懐古の価値があるのである、私の知らぬ方面ではあるが、古の江戸店は今日如何なつてゐるであらうか、依然として江戸時代の旧を守つて居るのか、守つて居られるのか、私は恐らくあの制度は行詰つて居りはせぬかと思ふ、但しかう云ふ問題は関する所に利益といふ事が伴ふから早く改良進歩の実が上ると思ふが、鈴屋系の古学は今どうなつてゐるのか、鈴屋せんべい鈴屋おこしはあつても肝心の鈴屋の学問はどうなつてゐるのか、鈴屋の屋形が公園に存して居ても、それは形骸である、死馬の骨に五百金を投ずるのは、千里の馬の出づるのを求むるのである、こゝに鈴屋大人が住んで居たと知つて其れが何になる、かゝる陋屋からでもあの大偉人が出た、我れ第二の鈴屋大人たらむと志ものゝあるを待つのである。思ふに現今の国学なるものは我等の生活とは没交渉の過去の世界を教えてゐるのでは無いか前年の世界の大戦に国学者が如何に動いた単なる言語学の一部に逍遙してゐるのに甘んじてゐるなら宜しい、苟くも古の道を説くべき国学者たるものが、癸亥の大震災に如何動いたか、現下の思潮に対して如何なる態度を執つてゐるか、学校の先生に甘んじていゐるにしても子弟を如何に教導するか敬神と説く其敬すべき神とは如何なるもの乎、神の実体が確乎とわかつてゐるか、古の道とは今の道である、私達の踏み行く道であらねばならぬ、如何なる道をふむのであるか、命令で踏む道でも無い法律でふむ道でも無い、習慣でふむ道でも無い、私達が人が人としてやむにやまれぬ、どうしてもかくあらねばならぬ理由の下に踏む道であり、敬ふ神である、筧博士が古神道を説いてゐるもの多分ここであらふ、鈴屋大人の古道もここであると思ふ、遠き古の道を研究するのは、今新たに私達の活き活きて行く道に続いてゐるからである、行詰つた現代に、どれ程偉人を要求してゐるかしれぬ、私はかゝる立場から旧知の松阪の諸君に第二の鈴屋大人を出現せしむべき雰囲気を養成してほしい、併て第二の鈴屋大人の出現するのを切望する。



(C) 本居宣長記念館


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