midashi_b 明治初年の松阪

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 佐佐木信綱は印東昌綱の歌集『家』の序で、
「昌綱さんの生れた明治十年の冬に、松阪に引越した。それは鈴屋社の歌会がおとろへたので、父がその監督を頼まれた故であつた。
 松阪では、平生町なる薬師の境内の家に住んだ。石薬師にくらべれば、松阪は大都会のやうに思はれ、かつはその翌年の春から近辺の小学校に入学するといふ喜はあったが、家も庭も狭いので、かの桐畑がなつかしかつた。家のそばの薬師さんの本堂は広かつたので、そこであつた自由党の演説や、佐田介石さんのランプ亡国論を、わからぬながらきいたことがあつた。
 やがて、櫛屋町の小路(せうぢ)に引移つた。本居先生の親類で松阪御三家の一といはれた長井さんのうしろの家であつた。そこはかなり広くて、畑の添つてゐたのが嬉しかつた。京の高畠式部が来てとまつたのは、此の家であつた。」 と書いている。印東は信綱の実弟である。平生町の薬師は分からないが、信綱一家が住んだのは塩屋町で隣が来迎寺である。あるいはこの寺のことであろうか。
 また信綱の『ある老歌人の思ひ出−自伝と交友の面影−』(昭和28年10月。朝日新聞社)には次の記述を見る。
「松阪では、はじめ平生町に住み、後に櫛屋町なる長井家の横町に移つた。七歳の春には港町小学校に入学した。校長はさながは真澄先生(姓の字はわきがたい)、受持は上野貞利先生と、今もはつきり記憶してをる。
  梅の花すこし咲けどもうぐひすは
  まだ飛んで来て枝にとまらず
 この春詠んだ歌である。
 父は毎月鈴屋の歌会に出席したが、幼い自分も伴はれて歌会の末席に列なるやうになつた。当時の鈴屋は、魚町にあつて、本居先生のお住みになつてゐた時のまゝであつた。
 会にあつまる者は皆、まづ中二階に上り、先生が古事記伝等をお書きになつた四畳半の部屋に入つて、床の間にお辞儀をする。それからお座敷の歌会の席に着く習はしであつた。その頃は、文政八年に春庭大人の門に入られたといふ久世安庭翁も健在で、歌会がはてゝからの昔がたりは、今も忘れがたい尊い思ひ出である。」
 佐佐木信綱が松阪に来たのは、明治10年(1877)12月6歳の時である。同年9月、次男昌綱が生まれている。翌年1月、湊(港は誤記)町小学校に入学。校長は真川真澄。


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