村田元次と全次

 元次(もとつぐ)は、明暦元年(1655)生まれ。享保18年(1733)7月20日没。法名温新院入誉随徳居士。命日は「村田家資料」中の墓誌写しに依る。
 村田家は、江戸や京都で木綿や茶を商っていたと言う。元次は、宣長母方曾祖父・村田孫兵衛重次の兄の子。兄一念が子供を残し早世したので、弟重次はその妻を娶り、子を実子とし後を継がせた。元次、通称孫兵衛。後に孫助と改め、松坂新座町に隠居し、後を異父同母弟豊商、宣長の外祖父に譲った(『本居氏系図』「歴代諸妣伝」宣長全集・20-121)。

 元次の子が全次(たけつぐ)。宝暦元年(1751)没。寅斎。
 全次は、浅見絅斎(けいさい・1652〜1711)の門人。父も垂加神道家。親子は嶺松院歌会再興メンバーにも名を連ねる。元次は、北村季吟の松坂訪問を迎えた一人(『伊勢日記』)。

 身内に垂加神道家がいたことが宣長にも影響を与えたとする説がある(西田長男『日本神道史研究』)。
 一方、森瑞枝「修学期宣長の伊勢・垂加神道影響説について」(『日本文化研究所報』147号)は、それらの説を簡略に紹介し、反論する。
 直接の影響があったか否かは簡単には結論は出ないが、宣長の叔父・察然和尚が出たことやこのような垂加神道へ傾倒する人が出るなど、母方・村田家の商人の枠に収まらない家風を軽視することは出来ない。

 また、村田家旧蔵書の一部が石水博物館に所蔵されることが最近判明した。
少年期の読書にも、この村田家が影響を及ぼしたのではないかと推測される。
 村田家の墓は樹敬寺にある。
 また村田重次奉納の石の鳥居が八雲神社境内に現存する。
近くまで行かれたらぜひ探して頂きたい。

【参考文献】
「村田元次とその周辺」岡本勝『愛知教育大学大学院国語研究』第12号
「小津勝」吉田悦之『松阪学ことはじめ』(おうふう)


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