midashi_g.gif 宣長の見た天皇陵と古墳(飛鳥篇)

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 『菅笠日記』の旅6日目、宣長一行は吉野から六田、壷坂寺を経て飛鳥に入る。
 飛鳥での関心事の一つは、もちろん天皇陵と古墳。飛鳥で聞き取りや実際に中に入るなどして探求したのは次の十の陵墓である。執拗な探索ぶりは、自分で弁解するほどだ。宣長の見た飛鳥の天皇陵・古墳を、最近の研究成果も踏まえかいつまんで紹介してみよう。

  1.  平田で見た「文徳天皇陵」は、野中の小高きところに松が三本か四本生えていて一方が崩れているように見える。これが今、国特別史跡に指定される「高松塚古墳」である。被葬者は不明。

     ちなみに、現在文武天皇陵とされるのは「高松塚古墳」の南の「栗原塚穴古墳」。ただし一説に、高松塚古墳の北に位置する「中尾山古墳」とも言う。


  2.  次に野口に行く。そこで見た「古墳」は、石室の中ものぞいてみるがずいぶん荒れていたようだ。誰の陵墓だろう。地元の人は口をそろえて「武烈天皇の御陵」と答えるのは不思議だ。『延喜式』によれば、この檜隈にある天皇陵は、欽明天皇(檜隈坂合陵)、天武天皇(檜隈大内陵)、持統天皇、文武天皇(檜隈安古岡陵)である。ただしこれ以上はわからないと宣長は結論を留保する。

     幕末になってここが文武天皇陵とされたが、明治13年に『阿不幾乃山陵記』が京都栂尾高山寺で発見され、それが典拠となり翌14年2月15日、天武持統天皇合葬陵とされた。この時に、文徳天皇陵は「栗原塚穴古墳」に比定される。この記録の発見については、玉利勲「定家を嘆かせた天皇陵盗掘」(「日本考古学外史、2」『月刊百科』1990-9)に詳しい。

     ではこの発見以前、天武持統天皇合葬陵はどこと考えられていたか。それは、宣長も見た見瀬(五条野)丸山古墳であった。宣長当時はこの御陵の被葬者は不明だったが、文化年間頃に考定されたという。→ 5 参照


  3.  7日目には阿部文殊院を訪れて、境内にある二基の石室を見ている。現在の文殊院西古墳、東古墳である。両袖式横穴石室で、築造年代は、東が7世紀前半、西が後半と推定されている。


  4.  文殊院近くの高台にある古墳を、農夫に聞きながら訪ねる。石室に入って明かりを照らすと家型石棺が見える。一部欠けたところから手を突っ込んでみたが中は空洞であった。現在の「艸墓古墳で」、両袖式横穴石室、築造年代は7世紀前半頃と推定される。

    〔番外〕このあと、推古天皇陵と伝える「石舞台古墳」、また用明天皇陵と伝える「都塚古墳」についての噂を聞く。地名には心引かれるものもあったが訪ねてはいない。被葬者についてのコメントも無い。論ずるに及ばずといったところか。
     天香具山から西に進み剣の池(石川池)に囲まれた小さな陵を見る。孝元天皇陵である。念のためにその先の石川村で老人に聞いたらトンチンカンな答えが返ってきて失笑する。


  5.  軽村からさらに西に進み御陵を訪ねる。「見瀬(五条野)丸山古墳」である。南斜面の塚穴の狭い口から中の様子をうかがう。中は少し広く奥行きもありそうだ。水がたまっていて、奥から水の流れる音も聞こえる。案内人に誰の御陵だと聞いても知らないと答える。あるいは近くに三瀬村があるので、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上御陵だろうか。三瀬村には牟佐坐神社もあり「身狭」は「みせ」に通じそうだし、「坂上」も地形に叶っている。但し、『古事記伝』では「身狭」と「見瀬」の関連を推定するにとどまっている。

     宣長が訪ねてから40年くらいたった文化年間頃から、この「見瀬(五条野)丸山古墳」は天武持統天皇陵に考定されたが、明治13年に天武持統天皇陵が野口に定まってからは陵墓参考地となった。現在では、欽明天皇、堅塩姫、蘇我稲目説がある。


  6.  8日目の探索地は、神武、綏靖、安寧、懿徳と初代から四代までの天皇陵である。三瀬の「じんにくん」宅を出た一行は、伝・懿徳天皇陵を見る。但し疑問多し。村人に問うと、「げにさる事なれど。まことのみさゞきは。さだかにしれざる故に。今はかの森をさ申すなりとぞこたへける」、つまり適当に定めたとのこと。


  7.  吉田村で安寧天皇陵(御陰井上御陵)を見る。恐れ多いが御陵の上に登って前方後円墳の形を確認する。案内の者から古墳の構造についての説明がある。


  8.  綏靖天皇陵を訪ねる。ここでも上に登ってみる。安寧天皇陵と同形(前方後円墳)である。


  9.  四条村の300メートルほど東の田の中に松一本、桜一本植わった小さな塚がある。神武天皇陵だとのことだがとても御陵とは見えない。『古事記』の記述とも合わない。ひょっとしたら先ほどの綏靖天皇陵が本当の神武天皇陵ではないのか。考えてみれば綏靖天皇陵の場所の記載が「桃花鳥田丘上」と有るのもいぶかしい。といって、この錯乱説にも疑問点があるのでよく考えねばならないと述べる。この説は、竹口英斎の説に接して一部撤回され(「神武天皇の御陵」・『玉勝間』巻3)、さらに『古事記伝』巻20でも再検討される。


>>「神武天皇陵」
>>「天皇陵・古墳への関心」
>>「宣長の見た飛鳥」



(C) 本居宣長記念館


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