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宣長が和歌に関心を持ったのは18歳の頃であった。『和歌の浦』というノートを作成し、「歌書」の名前や短冊懐紙の書き方など、歌に関する情報の収集を開始した。
『今井田日記』には、
「去辰ノ年ヨリ和歌道ニ志、今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」
とある。
また、『日記』同年条にも宗安寺の法幢に歌を習い始めたことが書かれ、
「去年自リ和謌ニ志シ、今年ヨリ専ラ此道ニ心ヲ寄ス」
とある。
最初の歌は19歳の正月
「此道にこころざしてはじめて春立心を読侍りける」
と言う詞書のある
「新玉の春きにけりな今朝よりも霞ぞそむる久方の空」
である。
以後、亡くなる直前まで54年間に宣長が詠んだ歌は約10,000首に及ぶとされている。
作品は、『嶺松院和歌集』のような歌会の記録に載るもの、また『手向草』(真淵十三回忌追悼歌文集)や『鴨嵯集』のような特別な歌集に載るもの。『菅笠日記』や『紀見のめぐみ』のような紀行文として残るものなど実にさまざまであるが、一番基本となる歌集は『鈴屋集』、これは四季恋などテーマ別。また詠んだ順に載せた『石上稿』と呼ばれる一群の歌集がある。
この『鈴屋集』と『石上稿』は『本居宣長全集』巻15に載り、索引が添う。これを使うと宣長の大体の歌が検索できるし、また『石上稿』に載っていれば作歌年も判明する。
懐紙4点。
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1、「村田元寿尼八十賀歌」(宝暦6年)
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本居宣長詠(宝暦6年・27歳)、京都遊学中の作。外祖母・元寿の八十の祝いに、京都から贈った歌。祖母の賀に歌を贈る、このような、和歌の贈答をする環境の中で、宣長は育った。
【読み方】
とをといひつゝ八かへりの春をむかへていやましに蔭ひろき玉松のかはらぬさかへをいはふとなん聞てこの下草の末葉までよろこびにたへずなむ
宣長
春たちて やそちにみつの 浜松や さぞなときはの 色もそふらん
行末の なをかぎりなき 八十年は やを万世の 数にとらなん |
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| 2、「花間鶯」 |
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本居宣長詠(43歳)。2月3日、門人・須賀直見家で開かれた歌会での詠。宣長の筆跡の中でも大変ユニークなものである。
ひとつは、字体が珍しい。次に「平宣長」と本姓である「平」姓を歌の署名に書くこと。三番目は左端に紙継ぎのあること。
歌は、冬の嵐のような冬が過ぎのどかに鴬の鳴く春がやってきたという意味。歌の心が字体に反映しているのかもしれない。
【読み方】
花間鴬といへる事をよめる 平宣長
聞なれし あらしはたえて 咲花に ただのどかなる うぐひすのこゑ |
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3、「宣長翁二首懐紙」
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本居宣長詠(27歳)、歌は、京都遊学中の宝暦6年(1756)8月15日、有賀家の歌会での兼題を詠んだもの。筆跡もその頃のものと考えられる。
箱書「宝暦六年八月十五日有賀家月次歌会兼題をよめるにて当時の筆なり、但し野月の第二句を歌稿には萩の花野とせり、清造しるす」。
この日は兼題以外にも当座「叢祠月」を詠んだ。夜は、師・堀景山宅を訪れ月見を楽しむ。また、友人堀蘭澤、山田孟明、横関嗣忠、恆亮等と和歌を詠み、詩を作った。
【読み方】
詠二首和歌 春庵
野月
月もさぞ 萩咲のべを なつかしみ ゆかりの露に やどはとふらし
偽月
まことゝは おもはぬ物の 頼みきて 今さら人を 何うらむらん |
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| 4、「板文庫所詠之歌」(寛政6年) |
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本居宣長詠(65歳)。寛政6年(1794)冬、紀州徳川家第十代藩主・徳川治宝に初めての御前講釈を行い、褒美として「板文庫」を拝領した時の歓びの歌。箱書には、「家翁欣悦恩賜板文庫所詠之歌、本居春庭謹蔵」と記される。
一首目は、板文庫を拝領し松坂に帰った時の歌。二首目は板文庫の上についている硯(桜川でとれる珍しい石を使用)によせて詠んだ和歌で、自分を桜の老木にたとえて、もう花が咲かなくなったと思っていたが、お殿様の恵で(桜川の硯という)思ってもみなかった花がさきましたという意。この歌は『紀見のめぐみ』にも載せられている。
【読み方】
いともかしこくこゝろことなる御
めぐみの物をいたゞきもちて故郷
にかへるよろこびをよめる 宣長
よる光る 玉にもまさる たま物を ひるの錦と かづきてぞゆく
その御硯は桜川の石とあるにつけて又
冬ながら 老木も花の さくら河 ふかきめぐみの 春にあふ身は |
>>『和歌の浦』
>>『鈴屋集』
>>「法幢」
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