論争

 宣長は純粋に学問を愛した人である。だから質疑応答を好み、時には「議論は益多く候」と主張する。

「たとひあらそひても、道を明らかにせんこそハ、学者のほいにて候はめ、又よしあしをたかひに論するにつけても、我も人もよきことをふと思ひうる物にし候へハ、議論ハ益おほく候事也」
              安永元年1月22日付、谷川士清宛書簡。
 また、
「愚老説とてもいかゞニ思召候儀ハ、少しも無御遠慮、幾度も御議論承度候」
これは天明5(1785)年2月27日付・鈴木梁満宛書簡の一節である。

  宣長の論争は、儒学者・河北景木貞の『天祖都城弁』への反論『天祖都城弁々』(安永2年)、天文暦数学者・川辺信一への反論と自説の修正『真暦考不審考弁』(寛政元年)、『直霊』の草稿である「道云事之論」への批判をした儒学者・市川鶴鳴の『まがのひれ』に対する反論『葛花』(安永9年)、藤貞幹への批判、そこからの延長である上田秋成との論争『呵刈葭』(天明6年頃)など数多い。


> >「藤貞幹」
> >「『衝口発』論争の仕掛け人」
> >「上田秋成」



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