桜

 吉野を旅した宣長は、桜の宿り木をうらやましげに眺め、桜の宿り木はいいなあと歌にも詠んでいる(『菅笠日記』8日条)。桜は宣長が大好きだった花。自宅の庭にも何本も植え、春には花見にもしばしば出かけた。
 また、44歳、61歳の自画像では「山桜」がモチーフとなり、『遺言書』では奥墓に植えるよう指示し、自ら付けた諡にも「秋津彦美豆桜根大人」とある。

 桜への思いを最も直截に語るのは、
「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、浮き世の物とも思われず」で始まる「花のさだめ」(『玉勝間』)である。その細やかな観察は抜群だ。

 桜が日本独自の花であり(これは植物学上の問題では無く、その美しさの発見という意味)、また、自分が吉野水分神社の申し子ということも宣長の桜への思いには深く係わるが、何より花そのものが好きであった。

 夥しく詠んだ桜の歌については、亡くなる前年の秋に詠んだ『枕の山』が到達点といえよう。この歌集について歌人・岡野弘彦は「「枕の山」と題する桜の歌三百首は、最晩年の心の陰影と自在さとが、伸びやかに出ていて面白い」と評するが、晩年の宣長は物狂おしい程に桜を思い、ついには同一化しようとさえする。

【参考文献】 「本居宣長と桜伝説」鈴木淳『国文学研究資料館紀要』19号。

奥墓の桜

奥墓の桜


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