midashi_o.gif 千家俊信(センケ・トシザネ)

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 明和元年(1764)〜天保2年(1831)、享年68歳。通称、清主(スガヌシ)、家号、梅廼屋。出雲国造・千家第75代俊勝の次男。若い頃から、松江などで儒学を習い、京都で朱子学者・西依成斎に入門した。西依は隠岐国造・幸生の師で駅鈴調査を依頼された人だ。この成斎からは垂加神道も学んだようで、俊信の写本や、号「葵斎」(キサイ)の「葵」(アフヒ)も「負う日」(オフヒ)に通じるとする垂加神道、橘家神道の影響ではないかとされる。天明6年、23歳の時に、橘家神道を学ぶために伊予(愛媛県)の鎌田五根に入門するが、次第に「垂加神道」や「橘家神道」から離れ、宣長の古学に引きつけられていく。

 俊信には、『出雲風土記』研究という目標があった。同書は、祖先・第25代出雲国造出雲臣広島も編纂に加わっている。天明7年(1787)2月、遠江国(静岡県)の内山真龍(賀茂真淵門・宣長知人)により『出雲風土記解』が執筆された。その真龍の刺激や勧めもあって、寛政4年(1792)10月、29歳の時に宣長に入門する。
 入門後は、大変熱心に学び、寛政7年(1795)には、松坂に100余日滞在し師の講釈を聴講、同10年にも再訪した。
 また、寛政6年には、宣長高弟の小篠敏や沢真風を出雲に招いて講釈をさせたが、これはあまり成功しなかった。自らも松坂から帰国後は、塾を開き門弟の教導に当たり、出雲への鈴屋学を広めるのに功績があった。また、山陽方面にも影響を及ぼした。著作には『訂正出雲風土記』(文化3年刊)等。また、槍術、医学、天文にも詳しかった。
 その学問には、古典研究と言うより宗教家としての色が濃いが、宣長を尊敬すること誰よりも篤く、師からの手紙33通と、『古事記伝』執筆の時に使用した筆を神体に、自邸に玉鉾神社を創祠した。

 また、宗教家としての資質があったことは次の話からも伺える。

 深夜、出雲大社を参拝し、社を右廻しお釜の社付近に到ったら、髪を振り乱した女に出会った。そのまま通り過ぎて国造家まで来たら、その女に再び出会った。俊信は一喝して、帰宅後、家の者に追わせたら、それは老狐であった。
 寛政8年(1796)頃、自分の手のひらに「建玉」、また「玉」の字が出て、周囲の祝福をうけた。
 同年12月7日の宣長宛書簡で、この「掌の玉」一件について報告するが、宣長は、「そのようなことは、決して人に知られぬように秘密としたほうがよい」と忠告した(寛政9年3月11日付)。
 だが、宗教家としての俊信にとっては、大事なことなのであった。
その後も「建玉」と言う名前を使用し、
また、46歳(文化6・1809)年の時の画像にも、賛に、

  「くすしくも吾手のうらに玉ちはふ神の見わさを見るがたふとさ
         これかける時、 おのがとしは四十六、出雲宿禰俊信」

とあり、立烏帽子に狩衣姿で貴公子然とした俊信は、左の手のひらを見せている。
 この画像は、出雲文化伝承館「出雲の文人墨客」(平成24年6月2日〜7月8日)展で公開されている。
 同展覧会のチラシから紹介した。誤読があるかもしれない。また、画像の下には署名落款が有るがチラシからでは判読は困難である。いずれ確認し報告したい。


【参考文献】
「千家俊信の立場−附その阿波の弟子」城福勇(『わが残照−阿波郷土史研究−』私家版)
同書に依れば、俊信の伝記には、『梅舎自記抜萃』千家尊澄著、『国学の泰斗千家俊信伝』本田常吉著がある。


>>「門人」
>>「神に祀られた宣長」
>>「西依成斎」
>>「内山真龍」
>>「十六島海苔 」



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