柴田常昭(シバタ・ツネアキ)

 寛政8年(1796)5月12日没。享年40歳前後。名、孝房(『家集』による)。後に常昭。通称、四郎右衛門。津の商人。初め、谷川士清門か。宣長に入門したのは安永3年(1774)。同門で村田橋彦や川喜田政式と親しく、七里政要・田中次郎左衛門(俳号、木茶)とも交流があった。「格別出精厚志」の中にも名前が上がる。また、芝原春房の助力を得て『詞の小車』を著す。また同7年に『美濃の家つと・折そへ疑問』で師の『新古今集美濃の家づと』と『美濃の家づと折添』説への疑義を提出、それに稲懸大平が論弁、宣長が両者の意見を判断し『美濃の家づと疑問同評論の評』を執筆した。
 最近、津の石水博物館で、家集『常昭家集』が発見された。同書は寛政2年7月、それまでの和歌を自ら整理し、更に増補したもの。

  宣長は

「此人は学問に心を入れて覚(サトリ)も深かりければ行先頼もしくおぼえけるに」
と言い、また
「去冬家業筋ニ付大ナル心労有之、夫故ノ病気之由承り申候」
と、その早すぎる死を惜しんでいる。

      宣長の追悼歌
  夏柴田常昭が身まかりけるに寄夢無情【追善勧進】
  
    さめぬるかけし頼みのいふかひもなき玉のをのみじか夜の夢


 また、寛政8年8月、桑名の帰り津の小西宅に宿った宣長は、夜、芝原春房と語らい、常昭が生きていたらきっとこの場にやってきたであろうにと悲しみ、歌を手向けている。
「かへさに春村が家に津にやどりける夜芝原春房とぶらひきて物語しけるに柴田常昭もよにあらましかば必ずこよひはきなまし物をとかなしく思ひでられてねけるつとめて

なきたまも通ふ夢路は有ものをなどてこよひも見えこざりけむ」    
                      『石上稿補遺』

【参考文献】
「『常昭家集』をめぐって」岡本勝・『和歌史論叢』。
『常昭の語学研究』渡辺英二・和泉書院。  


> >『詞の小車』
> >「芝原春房」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる