midashi_o.gif 『衝口発』論争の仕掛け人

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 藤貞幹が書いた『衝口発』は多くの人の怒りを招いた。その中でも宣長の論駁は激しかった。だが、論争には仕掛人がいる。

 史料から反論の経過を推測してみよう。
 天明5年、京都の高橋某(あるいは橋本経亮の師・高橋図南の子宗澄であろうか)から、『衝口発』を借りて読んだ渡辺重名は、内容の杜撰に驚き、先生の久老や宣長に徹底反論して貰おうと考えた。
 まず山田(伊勢市)に持ってきて久老に見せた。
 9月8日には三井高蔭が重名の書簡でこの本のことを知った。この書簡は、大平が参宮で蓬莱尚賢の所に寄った時に言付かってきたものである。そこには、高橋氏がこの本を宣長にも見てもらえと言うので連絡する。ちょっと曰くのある本らしいので、高橋氏はまず三井高蔭に見せてそれから山田や松坂でも広めるようにと言う。

 さて、一覧した久老は、稲懸大平を介して宣長に送った。
 宣長は直ちに『鉗狂人』を書き、それを大平は重名に告げ、同時刊行という久老のもまだ見ていないが出来ているのだろうと言う。今、久老の反論は残っていない。
 貞幹と重名は、同じ日野資枝の門人だ。また、高橋が高橋図南、また宗澄であるとすると、貞幹は図南に師事しているので、高橋が見せろと云った趣意もわからない。

 不思議な論争だが、これがその後、上田秋成と宣長の論争へと展開していく。

【史料】
1,宣長『鉗狂人』(ケンキョウジン)に付く度会神主正兌の序(文政2年)
「ひとりのたぶれありて、ゆゝしともかしこしともいはむかたなきたは言ども、かきはなちたる物ありけり、さるを、そのころ豊後人重名、京にものまなびしてありけるに、或人その書をみせければいたくうれたみて、かゝるふみをなむ見得はンべる、いかでこのたはわざとくうちきため給へかしと、鈴屋翁がりいひおこせたるに、うべなひていととく物せられたる此の書になむ云々」(宣長全集・8-303)

2,『三井高蔭日記』天明5年9月8日条
「宗十郎様、造酒、先刻可申上奉存候処及失念候間申上候、衝口発と申候書高橋氏より借用仕候而山田ヘ持参仕候、右之書本居大人ヘ入御覧候様ニ高橋生も被申候、少々趣意有之候書物之義ニ御座候間、高橋氏より貴家へ被指出候而山田御当所等ニも流布致候由趣ニ仕度候下略之」

3,天明5年11月12日付、荒木田久老宛大平書簡(射和文庫所蔵)
「日外は京高橋家之写 本一冊飛脚へ御出し被下早束入手本居翁へ相渡候、甚にくむへき書之由御同懐之至ニ奉存候、評論も何角多用ニて段々延引相成候、本月中ニハ相成候半と奉存候」

4,天明5年12月、渡辺重名宛大平書簡(『国学者伝記集成』P945)
「右衝口発の評、鉗狂人と申す書一巻、此度鈴屋大人述作相成候間、御約束の通早速御地へ相登せ候。右論評、先達て御約束には、山田五十槻園と鈴屋と両先生の評、一時に相登せ可申のよしに御座候所、もはや五十槻園にも、御出来とは奉察候へ共、いまだ杉(引用者注「松」か)坂へ到来無之候て待兼申候」。


>>「渡辺重名」



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