midashi_v.gif 「敷島の歌」その後

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 この歌にはみんな関心を持った。その一人、伴信友は大平に質問をする。宣長の多く残す歌の中の一首に対しての疑問というより、師自らが自分の画像の上に選んだ特別 の歌としての質問である。
「朝日に匂ふ山桜花の御歌、凡そに感吟仕候て、本意なく候、御諭下され度候
 うるはしきよしなりと、先師いひ置かれたり」
              【『藤垣内答問録の一』】
 「敷島の歌」を大体の意味で理解して味わっていますが、本当の意味を教えて下さい、と聴いたのに対して、大平の回答は実にそっけない。「端麗・華麗ということだと宣長は言われた」。これは一首の解釈と言うより、歌の持つ雰囲気を宣長は、また大平は伝えたのであろう。

 この回答は享和3年(1803)5月28日で、信友が質問したのは、宣長没後一年余しか経っていない、享和2年暮れから3年初め頃であったと思われる。信友が藤林誠継に写させた宣長像に大平の賛(「しきしまの」の歌)を貰い、「鈴屋大人の肖像を写したる由縁」(『秋廼奈古理』所収)を書いたのが享和2年11月29日であったこともこの質問の背景にはある。

 また、その少し前であろうか、上田秋成は『胆大小心録』でこの歌を難詰している。
  田舎人の年が長じても世間を知らぬ、学問知識の片よった輩(『日本古典文学大系』の訳)の説も、また、田舎の者が聴いたら信じるだろう。京都の者が聞いたら、天皇様にかけても面目ない。知識の開けた都には通用しないはずだ。やまとだましいということを何かにつけて強調することだ。どこの国でもその国の魂というものが鼻持ちならぬものだ。自分の像の上に書いたという歌は、いったいどういうことだ。自分の上に書くとはうぬぼれの極みだ。そこで俺は、「敷島の大和心とかなんだかんだといい加減なことをまたほざく桜花」と返してやった。喧嘩っ早いねと言って笑った。
【原文】
「い中人のふところおやじの説も、又田舎者の聞(い)ては信ずべし。京の者が聞(け)ば、王様の不面目也。やまとだましいと云(ふ)ことをとかくにいふよ、どこの国でも其国のたましいが国の臭気也、おのれが像の上に書(き)しとぞ。
  敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花
とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉也。そこで「しき嶌のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」とこたへた。「いまからか」と云(う)て笑(ひ)し也。」『膽大小心録』第101条【『日本古典文学大系 上田秋成集』岩波書店】
 晩年の秋成は何事も気に食わぬことばかりであった。その頃の文章だが、誰かが宣長の画像の話をしたのであろう。それがまた疳に触った。ただ宣長の自賛像に対する反発が秋成以外にもあったであろうことは推測に固くない。

 信友、秋成この二人に始まった「しきしまの」の歌をめぐる疑問や毀誉褒貶は二百年後の現在まで続いている。とりわけ太平洋戦争頃は国威高揚のために盛んに使われ、その後の歌の評価に影を落とすことになった。

 この歌は、第5期国定国語教科書初等科国語7(昭和18年刊)「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられた。山中恒氏『御民ワレ ボクラ少国民第二部』【1975年11月刊、辺境社】の記述によれば、この教材は「散文 国体観念教材。五首の短歌とその解説。」といった内容である。教材の表題は、巻頭の歌
 御民われ生けるしるしあり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
から採っている。また、宣長の歌は次のように紹介されている。
「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
 さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」 『御民ワレ ボクラ少国民第二部』P312。
 文章には特別曲解はないが、現場ではどのように教えられたかわからない。ただ言えるのは、朝日に桜、この言葉が喚起するイメージは次の井上淡星の詩をそう遠く隔たるものではなかった筈である。
  特別攻撃隊を讃える歌
  忘るな昭和十六年
  極月八日大君の
  醜の御盾と出で立って
  朝日桜の若ざくら
  散った特別攻撃隊
  岩佐中佐と八烈士

 このほかに「しきしまの」の歌が武士道と結びついた例を挙げる。最初は安政4年12月7日生まれで、父は幕臣で表銃隊取締役だったと言う人の文章。他の一つは奈良女子高等師範学校教官の本からの引用だが、こちらは手元に本が無いため、正確な引用ではない旨先にお断りしておく。  
「佐久良は殊にうるはしくいさぎよき花なれば、これを我が大和心に比していへり。かの宣長が「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」の歌は何ぴとも知るところにして、藤田東湖の正気歌に「発為万朶桜」とよみしも同じ意なり。(中略)この花の特色として見るべきは、散るときのいかにもこゝちよき事なり。咲き乱れたる頃、颯と吹きくる風の一たび其の梢を払へば、花は繽粉と飛びちりて聊かも惜しむこころなきものゝ如し。そのさまは恰も武士の笑を含みて死に就くに似たり。花のたふとむべき所こゝにあり。
「花は佐久良」山下重民、『国民雑誌』第3巻8号、明治45年4月15日刊(『風俗画報・山下重民文集』収載)。

 「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、
  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花
という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館。
 宣長が武士道を歌ったとはどこにも書かれていないが、いさぎよく散った桜、と述べたすぐ後で「しきしまの」の歌が引かれていれば、その延長線上で理解されてもしかたがない。この歌を散る桜のイメージでとらえたのは、私の見た限りではこの二つだが、おそらく探せばいくらもあるであろう。

「愛国百人一首」

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