midashi_g.gif 真福寺

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 この寺については、宣長の概説がある(「誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?」【参考資料】参照)。もう一度、少し補いながら説明しよう。

 名古屋にある北野山真福寺宝生院。寺の歴史は、鎌倉時代末の1320年頃、木曽川と長良川にはさまれた中州、尾張国中島郡内(宣長は美濃国と書いている・今の岐阜県羽島市大須付近)に、北野社が勧進された時に始まる。その神宮寺として創設されたのが真福寺である。慶長17年(1612)、徳川家康の命により、洪水などの難を避けるべく今の地に移転した。この時に、塔頭「宝生院」一寺となったが、やがて大須観音として親しまれるようになった。

 この寺には貴重な史料が残されている。中でも有名なのが、『古事記』である。 1371、72年に、真福寺の僧・賢瑜(ケンユ)が写した。3巻揃いとしては現存最古である。  
 国宝だ。
 本書の価値を見いだしたのが、尾張藩士で宣長門人・稲葉通邦(イナバ・ミチクニ)である。
 通邦は、調査にずいぶん苦労した。本書は粘葉装だが、奥書「執筆賢瑜俗老廿八歳」、「(同)廿九歳」は、糊付けの中にある。よほど丹念に調査しないと発見できない。

 次に、賢瑜の年齢から書写年代を割り出す必要がある。同じ賢瑜が写した仏書『秘蔵宝鑰』(ヒゾウホウヤク)から応安3年に27歳であることがわかり、本書の書写が応安4年、5年であることが判明したのは寛政10年春のことである。だが、このことを通邦は自分で書写した『古事記』の奥書だけに記した。
 従って宣長は、本書が現存最古であることは知らなかったはずだ。このことが一般に知れ渡るのは、明治16年以後と言われている。
 ひょっとしたら、この書写年代などについても、通邦から通報があったかもしれない。でも、きっと、ああそう、やはり古いんだね、で終わった可能性が高い。宣長にとって、大事なのは内容だ。それについて吟味は済んでいた。




(C) 本居宣長記念館


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