『草庵集玉箒』(ソウアンシュウタマハハキ)

 頓阿(トンア)の家集『草庵集』2,000余首の中から、352首を選び、先行する注釈書『草庵集蒙求諺解』、『草庵集難注』を批判しながら注釈する。
 嶺松院和歌会に加入して、松坂の歌人グループに入った宣長は、知り合った稲懸棟隆から『草庵集』の注釈書を見せられる。それを、『梅桜草の庵の花すまひ』と言う本で論評した。それを延長したのが本書である。明和4、5年(1767、8)頃脱稿。前編5巻3冊は明和5年、後編4巻2冊、『続草庵集玉箒』は遅れて天明6年(1786)に刊行した。

 宣長は本書の刊行を賀茂真淵に報告した。ところが師は、軽く無視をする。

「草庵集之注出来の事被仰越致承知候、併拙門ニ而ハ源氏迄を見セ候て、其外ハ諸記録今昔物語なとの類ハ見セ、後世の歌書ハ禁し候ヘハ可否の論に不及候、元来後世人の歌も学もわろきハ立所の低けれハ也」(明和6年正月27日付、宣長宛真淵書簡)。
 はいそうですか、刊行したのね、でも、うちではこんな本は見ませんので、頓阿なんかだめだよ。読むんだったら源実朝だね、と言ったところだ。

 芝山持豊卿が、宣長より贈られた『草庵集玉箒』の返礼に詠んで贈った歌がある。


  本居の翁の玉はゝきといへる文に玉詠をそへて贈られしを謝して 持豊

 玉はゝき手にとりもちて先ぞおもふ草の庵にちりはあらじと
 塵をなみあけぬ暮ぬとみれば実草の庵の玉はゝきかな
 ことのはの露さへそひて玉はゝき草の庵ぞきよらなりける


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