midashi_o.gif 末田芳麿(スエダ・ヨシマロ)の訪問

l_o3

 宣長の下には、諸国の人がやってきた。地方から出てきた人には、まず何よりそれが驚きであり、珍しかった。

 寛政9年(1797)4月3日、安芸国の末田芳麿が山まゆ1反を土産に来訪した(『音信到来帳』)。そして、諸国の学者参集の様子を見て肝をつぶしている。書簡での報告は、

 「同(四月)三日昼前松坂着、すぐに本居へ罷越候処、当日は歌会にてるすと申事故、たづねて早速対面仕候。其夜は本居家にて万葉講尺承大慶仕候。甚先生も御多用に相見へ申候。此節は肥後熊本よりも儒者二人寄宿被致候外に紀州遠州尾州阿州皆々学者衆ノ出会にて不怪事にてキモヲツブシ申候。夫故一向何にても頼ノマレガタク御座候。委細は帰国の上御咄可申述候。四日夜津谷川へ泊り是亦世話に罷成申夫より関へ出」
とある。この3日の歌会は、熊本から来た儒者である「高本順」の来訪を歓迎し愛宕町菅相寺で開かれた臨時の会であった。『万葉集』講釈も来訪者からの懇望によるものであったかもしれない。

 当時、宣長の所には、熊本から儒者が2人、また紀州(和歌山県)、遠州(静岡県)、尾州(尾張・愛知県)、阿州(阿波・徳島県)からも鈴屋に勉強に来ていたという。熊本の儒者とは高本順一行。紀伊国田辺は谷井新吉、長谷部敬英、阿波国は名西郡白鳥村白鳥神社神主・宮?(記録1字欠失)周防守等であった。

【参考文献】
 芳麿の書簡は末田氏所蔵。書簡2通、但し内1通は断簡。「末田芳麿の書簡について」新見吉治、『鈴屋祭記念』収載。

>>「高本順」
>>「菅相寺」
>>「歌会」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる