midashi_v.gif 1、『菅笠日記』について その4

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 同行者
henyohenyo

 旅に同行したのは次の5人と従者。

小泉見庵
 魚町宣長宅の向かいに住む医者。37歳。宣長の友人。
 元文元年(1736)〜天明3年(1783)8月28日。享年48歳。見菴とも書く。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。名は蒙。蒙光院道徹見菴居士。小泉家4代。見卓の長男。
  『系譜』には、
「字子啓、号五林、称見菴、幼名文太郎、宅辺嘗有金松樹、因名其室曰金松斎、子啓作金松斎記、性好学、及没年耽仏学以故恒勤知因果道理、其所著有余力稿二巻、天明三年癸卯八月廿八日没、年四十八、法名蒙光院道徹見菴居士。葬願證寺先営之側。妾名近、子啓死而後嫁」とある。 『勢国見聞集』には、「見菴、松坂の人。垣斎君の嫡男なり。名は蒙、字は子啓、五林と号す。詩文を好み、其所著紀鑑及余力稿あり」とある。
  【墓石】願証寺「小泉見菴墓、天明三年癸(卯)八月廿八日、四十八歳」  見菴は、父の後を嗣ぎ、紀州藩御目見得医師。本居宣長の知人、或いはその吉野飛鳥への旅の同行者として、人々に記憶されている。見菴と宣長との係わりについて見てみたい。
  商家に生まれた宣長が医を志すのに、小泉家をその手本としたとする説がある。
 城福勇氏は、「(本来学問の道に進みたかった宣長が医業を生業とすることについては)親類のなかに医者が少なくなかったということが、かつにも宣長にも、大きな影響を与えたことであろう。だいいち筋向かいの小泉見庵がそうで、彼の医業は大いに栄えていたのである」と『本居宣長』で書く。親類で医者といえば、遠縁に山村通庵がいる位で、決して多くはない。また、小泉家を範としたとか、同家が大いに繁栄していたという根拠を今確認することは出来ない。
 ただ確証はなくとも、息子の行く末を案じた母と宣長が、向かいの小泉家の生活を眺めていて、これならばできると考えたとしても決して不思議ではない。
 在京中の宣長を見菴が訪ねたことがある。「むかひ見菴殿先比のほり申され候」と、宝暦4年6月3日付宣長宛母勝書簡に見え、対面記事が『在京日記』に載る。
 だが二人の関係で最もよく知られているのは、この「菅笠の旅」であろう。宣長43歳、見菴37歳の時であった。参加者で、見菴以外はその後に整備される宣長の『授業門人姓名録』に名を連ねた人たち、つまり宣長の古典講釈や歌会のメンバーである。どうしてその中に見菴は入ったのであろうか。
 まず考えられることは、近所だったという点であろう。小泉見菴の家は、松坂町魚町上ノ丁の長谷川家に隣してあった。宣長に家の向かい側である。年齢も宣長が6歳年長と近い。
 ただ、吉野旅行中も見菴は、旅で知り合った尾張の人と漢詩を贈答しあっているように漢詩文を好み、和歌の宣長とは道を別にしたため、門人に加わることもなかったのかもしれない。つまり二人は友人だったというところに、旅への参加の一因を求めることが穏当だろう。
【写真】 「小泉見庵夫妻像」 「見庵墓石」 「歌碑」

>> 「歌碑の謎 宣長歌碑はなぜ建てられたのか」

稲懸棟隆
  中町の豆腐屋。宣長と同い年43歳。後に門人となる。息子・茂穂と参加。
>> 「鈴屋円居の図」

稲懸茂穂
  棟隆の長男。後の大平。17歳。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

戒言
  白粉町来迎寺覚性院の僧。年齢は不明。棟隆と親しかった。同い年くらいか。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図」

中里常雄
  中町の豪商の息子。後に長谷川の養子となる。16歳。大平の友達。後に門人となる。
>> 「鈴屋円居の図

従者
  恐らく一人付いていったと思われる。屈強な人だろう。名前、年齢不明。
 14日、飼坂越えの条。歩く者は息も絶え絶え、従者は荷物を持っているので、これまた遅れているが、つづら折の道なのですぐそこに見えるなんて、気分が優れない宣長は駕籠に乗り、呑気なことを言っている。

【原文】「とものをのこは。荷もたればにや。はるかにおくれて。やうやうにのぼりくるを。つゞらをりのほどは。いとまぢかく。たゞここもとに見くだされたり。」 また、飯福田寺辺りで、供の人は一人先に松坂に帰る。各家に、帰ってきたから迎えにこいと触れるためだ。
【原文】「いぶたにまはりし所より。供のをのこをば。さきだてゝやりつれば。みな人の家よりむかへの人々などきあひたる」



(C) 本居宣長記念館


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