midashi_b 「姿は似せがたく、意は似せやすし」

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 宣長の『国歌八論斥非再評の評』に出てくることば。

「姿ハ似セガタク意ハ似セ易シ、然レバ姿詞ノ髣髴タルマデ似センニハ、モトヨリ意ヲ似セン事ハ何ゾカタカラン、コレラノ難易ヲモエワキマヘヌ人ノ、イカデカ似ルト似ヌトヲワキマヘン、試ニ予ガヨメル万葉風ノ歌ヲ万葉歌ノ中へ、ヒソカニマジヘテ見センニ、此再評者決シテ弁ズル事アタハジ、是ヲ名ヲ顕ハシテ、コレハ予ガ歌コレハ万葉歌ナリト云テ見セタラバ、必予ガ歌似セ物ナリト云ベシ」(宣長全集・2-512)

 小林秀雄はこの一節を引いて次のように述べる。

 「この宣長の冗談めかした言い方の、含蓄するところは深いのである。
 姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう、何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ。先ずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでも出来るではないか、諸君は、そう言いたいところだろう。言葉とは、ある意見を伝える為の符帳に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである。古の大義もわきまえず、古歌の詞を真似て、古歌の似せ物を作るとは笑止である、という言い方も、この根強さに由来する。しかし、よく考えてみよ、例えば、ある姿が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体ではないが、単なる符帳とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない。「万葉」の秀歌は、言わばその絶対的な姿で立ち、一人歩きをしている。その似せ物を作るのは、難しいどころの段ではなかろう。
 意は似せ易い。意には姿はないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえも無用なら、意こそ口真似しやすいものであり、古の大義を口真似で得た者に、古歌の姿が眼に入らぬのも無理はない。」
                   『本居宣長』25章(上巻306頁)



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