midashi_v.gif 『鈴屋翁略年譜』と『鈴屋門人姓名録』

l_v3.gif

  略年譜は伴信友編。但し、平田篤胤は、堤朝風が書いた物を信友が自著として刊行したのだと批判する。門人録は不明。略年譜は、本居清造の補訂を経て最近まで使用され、宣長研究の基礎資料となっている。門人録は杜撰な編であるが、宣長の学問の伸展を知ることが出来る。
 最初は略年譜と門人録を併せて刊行する計画もあったようだ。11月30日付本居大平書簡に関連記事が載る。

 「寒冷日々増深覚候、益御揃安健奉賀候、拙居無恙罷在候、乍憚御休意可被下候、いつそやは御染筆短冊御贈被下大悦、此間出雲清主へいろいろ返事等いたし遣候ついてに五六人短冊認有合遣候内へ貴詠も一葉入遣し申候、有郷のも遣し申候、
 一、先達而申上候通今般京にて故大人略年譜とて、著述物上木其外名古屋行、紀国行、京行なとの事つまひらかに年紀に記し候物也、伴信友編述に御座候、右に付故翁門人帳も上木いたし度申候に付、宇治山田之位階正しく記したく候、是は貴兄も大に御苦労なから何とそ急て其手筋へ御聞合早々御正し可被下候、右要のみ申上候、恐惶謹言
  十一月卅日                本居三四右衛門
 安田伝大夫様
此間宇治久守より文通ありて京山田阿波守、江戸の腋斎なと山田に在留いろいろ雅事学事の事なとありしと申来候。以上」
 楮紙2枚継。23行。縦14.6cm、横40.8cm。(村山家旧蔵)

 書簡中の伴信友の『鈴屋翁略年譜』は、文政9年9月29日成立、12年序、跋が添う。刊行は12年から13年初頭。村田春門の『田鶴舎日記』文政13年3月20日条に「略年譜上仕立本十部出来候内、此度紀州大平より相贈」と見える。安田伝大夫広治は伊勢の御師。宣長三女能登の夫である(天保3年没)。清主は宣長門人千家俊信(天保2年没)。久守は荒木田久老次男(嘉永6年没)。山田阿波守は山田以文であろうか。腋斎は江戸の考証学者・狩谷掖(※)斎。
 書簡の年次は文政12年(1829)と推定される。まず、略年譜の稿を大平が見た文政8年冬以降であることは間違いない。次に、文中に『鈴屋翁略年譜』と併せて「故翁門人帳」も出版したいと見えるが、略年譜が既に刊行されたとは明記されない。但し、送ったとか見せたとは書かれていないのでその刊行前であろうと推定されるだけである。大平が稿を見た時期について鈴木淳氏は次のように述べる。 「『田鶴舎日記』を参酌しながら、本書(引用者注・『鈴屋翁略年譜』)が出板に至った真実の経緯を追跡することとする。

 まず本書の案文成立の時期については、文政九年四月十五日の条に、大平書簡の一節「伴信友旧冬古翁の伝記 つまびらかに認置たく、案文見せに参り御座候」を引掲してあることによって、文政八年冬のことと知られ(以下略)」  (「本居宣長伝の成立」『江戸和学論考』ひつじ書房・1997年、P570 )
 次に、11月30日があった大の月の年を見ると、文政8年は無く、以後9,10,11,12,13(天保元)、天保2,3,4(大平没)が該当する。
 最後の手がかりは「江戸の腋斎なと山田に在留」である。この前後で狩谷掖(※)斎が伊勢に来たのは文政12年9月である。この年ならば11月は大の月で、略年譜は刊行直前であり書簡文章も無理なく理解されるのではないだろうか。従ってこの書簡は文政12年のものであろう。

 「故翁門人録」の刊行については分からない。刊本はあるが、はたして大平が関与したかも疑わしい杜撰な本で、刊年も書肆も不明である。同書について、鈴木淳氏は明治2,3年頃の刊で、松坂の書肆柏屋や本居豊穎が係わったかと推定される(『本居宣長と鈴屋社中』P228)が、刊年はともかくも、基礎的な、例えば略系の誤りからは、本居家や松坂とは関係ないところで出されたように思える。参考までに石水博物館所蔵本『鈴屋門人姓名録』の所見を記す。
『鈴屋門人姓名録』版本1冊。小本。縹色表紙。題箋「鈴屋門人姓名録 完」。蔵印「慈々斎文庫印」
【内容】「鈴屋翁略系」・「鈴屋門人姓名録」(484名記載)・「著述書目」(49冊記載)
【解説】略系には「享和三年(元に書入訂正)」や出身地を「奄藝(飯高に書入訂正)と言う誤りあり、著述書目には、「古事記伝」44冊、「【改訓】新刻古事記」3冊等の他、「源氏物語年紀考」1冊、「紫文要領」2冊、「疑斎弁」1冊、「玉くしけ」1冊、「玉くしけ写本」1冊等とあり。刊記など無し。

【参考文献】
『伴信友の思想−本居宣長の学問継承者−』森田康之助、ぺりかん社。



>>「伴信友」
>>「門人」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる