鈴木朖(スズキ・アキラ)

 明和元年(1764)〜天保8年(1837)。名古屋の儒学者。名古屋西枇杷島の医者・山田重蔵の三男として生まれる。通称、常助。字、叔清。12歳で市川鶴鳴の門に学び、15歳で『張域人物誌』「文苑」に載る程の才であった。18歳で祖父の家督を継ぎ鈴木氏を名乗る。母屋から離れたところにいたので「離屋」と号す。晩年には、藩校明倫堂教授並となり、『日本書紀』や『古今集』を講じた。

  天明5年(1785)には『てにをは紐鏡』を書写、また『詞の玉緒』の抄を作ったことからも知れるように、国学、特に国語学にも造詣が深かった。
  寛政4年(1792)29歳の時、名古屋を訪れた宣長の門人となり、『馭戎慨言』序を執筆。
  同6年には松坂に来訪する。あるいは名古屋から帰郷する宣長に従ったか。『遍照寺月次歌集』にその時の文を収める。著書には、『言語四種論』、『少女巻抄注』、『離屋学訓』などがある。

 人物としても面白く、講義の謝礼は
「菓子より砂糖、砂糖より鰹節、鰹節より金」
と玄関に書いて貼っていたともいう。また次のような狂歌も残る。

 味噌で飲む一ぱい酒に毒はなし煤けたかかにしゃくをとらせて

 次はまじめな歌。記念館所蔵の懐紙の歌。
「二月廿四日 同詠山暮春歌/朖/暮て行春の名ごりは夏かけてゆふ日ににほふみねのふぢなみ」

 名古屋では、昭和50年に「鈴木朖学会」が設立され、以後、離屋会館を会場に、毎年講演と研究発表を行って来たが、平成19年(2007年)の没後170年の記念行事と『文莫』30号刊行を期に、一応の終止符が打たれた。但し、学会そのものは継続し、これからも研究会や出版などを行っていく予定とのことです。

 作曲家・柴田南雄さんの五代前の景浩、号を西涯と言い、京の医師浅井図南の弟子で尾張藩典医となった人ですが、その妻リト(里登)は、鈴木朖の実姉だったそうです(『わが音楽・わが人生』岩波書店)。

<補注>
 その後の研究により、
「京の医師浅井図南の弟子」ではなく
「京の医師浅井南溟の弟子」だったことが判明しました。


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