midashi_o.gif 康定と宣長の対面

l_o3

 宣長は寛政7年(1795)8月13日、参宮の途次松坂に泊った石見浜田藩主松平康定を本陣・美濃屋に訪い拝謁した。この時のことは康定の『伊勢麻宇手能日記』に詳しい。この日記は、福井久蔵氏が「鈴屋大人の新資料」(『古事記伝の研究 皇国文学 第二輯』昭和16年3月刊)で紹介された。今、原本の所在が不明なので、福井氏の文章より関係部分を転写する。文中、高蔭所蔵本の原本が火事で失われたとあるが、渡辺三男氏の「福井久蔵博士の人と学問」(『列伝 人物と門流』昭和60年11月刊)に拠れば、福井氏の蔵書も戦災で大半が焼失したと云う。この日記もあるいは既に失われているかも知れない。読みやすい形にして転載する。

 余が文庫に侯の伊勢麻宇手能日記がある。一巻三十四枚半枚十行づゝ見事な筆跡でかゝれ、表紙に二見浦の略画が墨がきにしてあつて、
 「十一日つとめて伏見のやとりをいでたつ」
から始まってゐる。いろいろ面白きこともあるが、御野(敏に同じ)のことや、本居翁と会見のことばかりを摘載する。鈴鹿の関に孝子万吉に会見、関の地蔵の別当の坊に宿り留学してゐた小篠御野を呼寄せ打合せなどをされたところから抽く。
 「小篠の御野はからぶみのはかせなるにも似ず、我皇国の古き手ぶりをしたひて、よはひの七十に近きも思はで、四月ばかりより此国にものならひに来てあるを、国を出たつほどあが神まうでの事どもかつかつかたらひおきしかば、便りごとにそのすぢの事ども何くれといひおこせしを、こゝにて猶よくさだめてんとてよび出て懇に問に云々とある。七十近き漢学者を差遣して本居学を学ばせられてゐたのである。御野は朝夕鈴の屋に通 ひて本意のことかの翁に問きゝ、あるは友どちつどひて心やり侍るなど嬉しげに、かしこのめづらしき事どもいひつゞくるに」
と老人が徒歩で参つて痔疾を引起したのも推して趨謁面唔申上げた。翌十三日津の城下を経、たか茶屋曽原などいふ郷を過ぎて松阪に到り大橋の向に宿りをとられた。鈴屋には消息もしないうちに日没後間もなく翁の方より檜扇に檜破篭を添へて、
  民やすくはくゝむ君がみてくらはうれしと神も受さらめやは
と檀紙に記した一首の歌を奉つた。後程もなく大人は旅館に伺候した。侯は慇懃にもてなした。その時の状を、
「はじめてたいめするに、年比いかゞと思ひし本意も叶ひぬれば、何くれの事はいひさして古き典はさらなり、中昔のことばのさとりがたきふしぶしや何やを思ひ出るまゝに問きけば、いさゝかとゞこほることなく、よしあしのけぢめあきらかにこたへす。」
侯は旅路の事を述べ、西国の面白き海景を語り、各所にての吟詠を示されると、直に墨引き言加へなどされ、侯は
  音にのみ聞し鈴屋のをぢに逢てふるごときくぞうれしかりける
と素直に心裡の悦をのべ初夜過ぎるまで対談された。辞し去つた後大人の様子を後りうごととして次の如く書いてゐられる。
「歳は六十あまり六とか聞しを、程よりはすくよかに見ゆれど、耳なんほのほのしければ、すぢなきいらへせんも心くるしとや、御野はかのをさめきて側にひゞらぎ居て伝ふることにいと大声に物すれば耳に手をおほひ、少しかたぶきつゝ聞うるほどいと心もとなし。打むかへば筆つきのたけきには似ずてをゝしくこはごはしき気もなく、おもりかにて面やう髪のゆひさまなとは早う見し写し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし、老たるけにや、やせほそりたれど心肝はいとつしやかなりけり」
と叙してある。大人が長身痩躯、温容の人、六十六歳で耳の遠かつたことが知られる。年譜によると、寛政七年のことで二月に字を中衛と改め、大祓詞後釈が出来た年で、その前年十月には若山に到り大祓詞や古今集序などを紀伊大納言に進講し、紀行紀見のめぐみを作り、翌年には源氏物語玉の小櫛が脱稿してゐる。古事記の中巻の伝はその四年前に出来てゐる。
  侯は翌々十五日宮川を船で渡り二見浦で禊ぎを行ひ宇治に入り、三祢宜定綱三位、四祢宜経雅三位等に迎へられ、清渚集などを見、斎館に入り衣を改めて神拝を終へ、十六日雨を衝きて松阪に引かへし、大人と会見された。侯のお望みにより前年紀伊大納言より拝領の品々を御目にかけた。さうして源氏物語につき一場の講話を請はれたので、大人は衣を改め初音の巻を講じた。その時の有様を旅の日記に
「ひかる源氏物語のうへども語り出るに、言葉のれいをもて見る時は、大方しられて一わたりとくことなどは何ばかりのことにもあらさるを、たゞ式部の君のふかく心をもちひ給ひてかゝれたるほどなど、知れるもの稀也、さるを人の教ぞなどいひて、道々しきことにとりなし、中々に解あやまれるたぐひ世に多かりなどまめやかにかたる。」
と叙し、斯ういふ折でなくては大人の講話を聞かれることはできないであらうと従臣も勧め御自分もさう思はれてゐたので、一講を望まれた次第である。侯はその時の状を叙して、「翁はみやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたるいとよういひとほれり。中にも
  薄こほりとけぬる池の鏡にはよにたくひなきかけそならへる
といふ歌は源氏の御歌にて、みづから世にたぐひなきとはよも詠み給ふまじ。異本に
「曇りなき」とあるを用ふべし。又明石の姫君の御歌に
  引わかれ年はふれども鴬のすだちし松のねを忘れめや
  をさなき御心にまかせてくだくだしくぞあめる
とあるを古き抄たゞちに歌のあしきやうに説けるはたがへり。こはつくり物語なれば源氏のうへなどことごとしうほめて書かれたれど、歌は式部の君のみなみづからよめるなればこれのみならず、所々に歌はよくもあらぬ さまにかき給へり。かゝるたぐひ例のふかく心を用ひ給ひし所なりといへるなどぞことに耳にとゞまりて覚ゆ。」 と叙し、猶翁が契沖阿闍梨並に県居大人之源氏の説き方を批評した言葉を挙げて次の如く述べてある。
 契沖あさりの説は大かたよろしけれど、いとすくなきこそ口をしけれ
と評してある。源註拾遺の説明の太簡なるをさう云はれたものであらう。県居大人に関しては、
「県居のうしはあまりにもあかれる代のすがたをこのみて、中昔の物語を説くにも、さるさまにいひなせば中々にその代々にたがへる事まじれり。かきさまも人聞うとく阿闍梨のは心得やすし」
と語つたと記されてある。
 また仮名遣問題に関しては門人石塚龍麿の功をたゝへ、古言清濁考を紹介し、
「かんなの疑はしき是かかれかなどあげつらひ物するに、すべて物語ふみにはいまだ思ひ定めぬもおほかり。ふるき言葉はすみ濁れるもけちめあるを、宣長いかであまねくあきらめて今の世のひがよみを直し侍らんとはやくより思ひわたり侍りつるをえなんはたさずてありつるを、弟子なる石塚の龍まろといふもの、その心さしをつぎて清濁考と名づけて物し侍り云々」
斯ういつてゐる中に、御野がこの郷に三井高蔭や稲掛大平の如き優れて古言を好んでゐる門人がゐますから、両人をお召しになつてはと密かにうかゞひを立てると、宜しいとの御言葉があつて、両人はやがて面 謁をなした。二人とも最初はうひうひしい状態であつたが、次第にうちとけて恰も親しき友垣の如く御話を申し上げ、大平はやがて次の如き一篇の長歌を奉つた
 言霊のさきはふ国 言霊のたすくる国の 古言のことのみやひを
 まなぶ人 さはにはあれど 学ぶ君さはにはいませど
 うま人はうま人さびて そらかそふおほよそにのみますものと聞つるものを
 つぬさはふ石見の海の うら安に御城高敷て 国しらす殿の命は
 ふる言の言のこゝろを 奥山のいはもと菅の ねもころに分きためたまひ
 てる月のあきらめますと 風の音の 遠音にきゝてその海の深くたふとみ
 其御城いや高々に 年久にあふきまつるを 神風の伊勢の国
 わたらひの神の大宮に この秋はまゐでたまふと かしこくもわがまつ阪の
 御やどりにやどりたまひて すゞのやの翁とかたらひ 古言の言のこゝろを
 いや深くとひますなへに をちなきや大平すら
 をかしこくも御まへに召され 霊の神のちはひか 言霊の言神のたすけか
 あやにかしこし
これより先、大平は関のうまや有馬の日記も石見に送つて御目にかけてゐたので、侯はそれを写して返され二首の歌も腹案は出来てゐられた。また高蔭の珍襲してゐた雑要抄を借用されたことが次の如く誌されてある。
「かの雑要抄の中にてうどとも、こまかにかきたる絵巻物を高蔭がもてる。こは源氏の物語など心えぬ所々、こをもてさだむる事おほかれば、いかで見せ参らせむとて、御野が借り得てこの比おこせしを、まつ一わたり見しに、いとうるはしくかきて、世にめづらかなる物なれば、我例のくせとて、東にもて行てうつさせんはいかにといへど、そはかたき事也、こと人には見るばかり乞ふだに、かやすくはゆるさず、此ころも物のついでごとにいひ出つゝからうじてもてまゐりしなり。されど此郷にて物せんことはこしらへ置侍りしなどいらふ。さは我あへらん時、いはんとて、けふしばしばほのめかしければ、いとよく請ひきて、そが云ひけらく、こはもと高橋ぬしの家にふかくひめ置れしを我このぬしに物ならひ侍りしかば、いろいろ物して京の絵師にかたらひて、神にちかひ口かためて後三とせといふをへて事なりぬ。すべて都かたの人はかうようの事いみしうもてかくさるゝから世にも伝らす、こも既にほむすびの神のいかりにあひて、そのもとは焼失ひつるを、世に残りたるはたゞ我もたるのみ也。六巻侍れば此三巻はあづまへもておはして御写し伝へ給へ、今三巻は又後に奉らむとねんごろにいらふるに、嬉しければおしつゝませてそがはしに書きつく
  いにしへのみやびを見るはたかかげとあだにはおもはじ年はへぬとも
 こをよくふんじて長櫃にいれよと仰せはなほくさぐさ問きくに、我も人もいにしへしのぶ世の ひがものとちなれば、亥四つまで語らへどつきもせず。」
その夜のさまが思ひやられる。斯くて話ばかりではと云ふので、互いに歌を詠みかはした。
翁のは
  古言はまうせど尽ず秋の夜を千代もあかさんおまへさらずて
次に高蔭は
  伊勢のあまのすめるかひある渚とは宿れる月の光にぞ知る
大平は
  月かげはくもる今夜もたふときや君かみおもわ見まつるかよさ
侯はこれらの人々の歌にめで、
  古郷の人にかたらん旅ころもかゝるまとゐのかゝるみやびを
とよまれた。翌日侯は寅の刻出立たれ、高蔭大平が御送りをなした。」
 なお、対面後の10月20日付宣長書簡が『鈴屋集』巻9(宣長全集・15-171)に載る。


>>「小篠敏」
>>「石塚龍麿」
>>「稲懸大平」
>>「三井高蔭」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる