midashi_o.gif 武川幸順(タケガワ・コウジュン)

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 享保10年(1725)1月30日〜安永9年(1780)3月28日。諱は健徳(ケントク)。号は南山。父は幸哲(元順)。京都で代々小児科を営んだ。住所は室町四条の南。景山先生のすぐ側だ。最初に師事した堀元厚が没したので、宝暦4年(1754)5月1日、宣長(25歳)は武川幸順に入門する。幸順も景山門であり、また年も近かったので、宣長は幸順に従い行動を共にすることが多かった。幸順は、医者として明和年中(1764〜72)には英仁親王(後桃園天皇)の御殿医を勤め、その功もあって、法橋、後に法眼となる。また、宣長が『馭戎慨言』を執筆したときにはその内容に感銘し、摂政・九条尚実に献上を企てるがその事半ばで死去、子がその遺志を継いだ。

【資料】
『在京日記』
「五月朔日、入武川幸順法橋之門而修行医術矣、去月廿四日、正大夫【貞治改名】娶小堀十左衛門臣堀田清八女、此夜婚礼矣」(宣長全集・16-41)。

『家のむかし物語』
「同四年五月より、武川幸順法眼の弟子となりて、くすしのわざをまなぶ、【此先生、南山先生と号す、世々児くすしにて、其業いよいよ盛に行はれ、後桃園天皇の、いまだ親王と申せし御ほどより、典薬としてつかうまつり給へりき、宣長、同年の十月より、かの室町四条の南なる家に寄宿せり】(宣長全集・20-29)。

母の手紙(4月28日付)で、「いしや衆ノ方弥々御出候よし、めて度悦申候」(宣長全集・別3-320・来簡3)と書くのは、幸順への入門を指すのだろう。

4月晦日付宣長宛村田光阿(清兵衛)差出書簡
「然バ兼而得御相談候貴殿医行入学之義、藤伯老御セ話ニ而、武川氏え通ヒ修行之積ニ相成候由、先ハ一段之義ニ被存候、何様武川氏被申候様子、同苗より承候所、御尤之義ニ存候間、先通ヒ被致修行可然存候、併通ヒニ而は、外ニ物入等も可有之哉と、気毒存候」(宣長全集・別3-367・来簡69)。



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