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諸国からたくさんの人がやってくる。しゃべる言葉の違いに驚き、またサイン帳をもって、出会った人に歌を書いてもらう人もいた。
伊豆の門人・竹村茂雄が鈴屋を訪問したのは寛政10年2月22日であった。
『宮はしらの日記』の翌23日条に、大平の紹介で松坂滞在中の橋本稲彦を訪ね、
「いみじう遠きさかひの人なりければ、うちいづることのはも何となくめづらかに、きゝもなれぬわたりのことなど、かきくづしかたらふ、しばしありて、稲がけの主はかへり給ひぬ、ひつるかたになりて、此人とともに大人の御もとにまうでて、文などの心得がたきところどころ、かつがつとひさだむ、こよひ万葉集をなんよみとくとのたまひけらば、さらばくれつかたにまいらんとて、立かへりぬる、くれ過て例の人(引用者注・橋本稲彦)、宇治の神司なりける人と、三人していでたつ、此人はさる田の神の末にて、今もなみなみのつらにはあらぬが、此ほど古風まなぶとて、こゝにきたり居給ふ也けり、さて、うしのもとに行て、文よみ給ふなど聞はてゝ、我もたるちひさきさうし(小さき冊子)とりいだして、これに行さきざきの、みやびをたちの歌をなんかゝせまほしきに、其こころしたる歌かきて、たまへといふに、とみに書つけて給ひぬ、かくて、かれこれをしへ子たちの、あまたつとひゐたると、国のものがたりなどして、夜ふけてやどりにかへりぬ
」『宮はしらの日記』
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