midashi_o.gif 田中大秀タナカ・オオヒデ)

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 安永6年(1777)8月18日〜弘化4年(1847)9月16日。享年71歳。高山の薬種商。後に荏野神社神主。通称弥次郎、後に弥兵衛、兵助。名は紀文(トシブミ)、大秀、八月麿。宣長に入門した頃は紀文と名乗っていた。号は千種園、湯津香木園。荏野翁。最初、熱田神宮神官・粟田知周、伴蒿蹊に学ぶ。
 享和元年(1801)、参宮の途次、松坂を訪ねるが、宣長は上京中と聞き、京都に廻り、4月13日、滞在中の宣長を訪ね入門する。そのまま京都に滞在し宣長の講釈を聴講、その後、飛騨高山に帰る。帰国後間もなく宣長の訃報に接す。
 著書は、『竹取翁物語解』、『落窪物語解』、『土佐日記解』、『養老美泉弁』など。自撰歌集『荏野集』(エナシュウ)は文政8年(1825)成立515首を載せる。四季(春84、夏57、秋100、冬61首)や雑部(147首)に比較し恋部の歌26首と少ないのが特徴。
 
亡くなる前年、福井に招かれ講釈する。その時の『万葉集』講釈の記が残る。そこには上段に「鈴屋万葉講説」と書かれ、京都で45年前に聴講した宣長の講釈の進捗状況が記されている。それに併せて大秀も講釈したのだ。聴講者の中には橘曙覧もいた。宣長門人の少ない飛騨の地で、宣長の追慕会を毎年のように主催したことと併せて、宣長敬慕の念の篤さに驚く。僅か2ヶ月しか教えてもらっていないのに・・。遙か彼方に乗鞍岳を仰ぐ荏野神社、その近くの松室岡に「田中大秀之奥墓」はある。


>>「京都で勉強する大秀」
>>「書斎の鏡」
>>「仕官した宣長・断った曙覧」
>>「学問をする歓び−曙覧の場合−」



(C) 本居宣長記念館


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