谷川士清先生略年譜 (1歳〜19歳)

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記号:○士清関係記事 ☆関係記事 ★不慮

 1709年 宝永6年 ◇1歳

○ 2月26日(今の暦4月5日)
 伊勢国安濃郡八町(現在の津市八町三丁目)に誕生
父順端。家は代々医を業とする。幼名昇、公介、諱士清。通称養順。号昇卯、淡斎。家号恒徳堂。社号振々霊社。森蔭。

※他に応龍、卯斎、振々斎、潮翁と号す。


1713年 正徳3年 ◇5歳

 ★ 7月17日、弟松次郎(智幻童子)没。3歳 


1720年  享保5年 ◇12歳

○ 2月、『素問』(ソモン)・『霊樞』(レイスウ)を読み始める
    (12月終業)。

※奥書『素問』「享保五庚子年二月より同年極月吉日読終」、『霊樞』「享保五庚子年二月より同年極月吉日読終、谷川養順十一歳」(皇學館大学附属図書館所蔵)。12-7

※共に漢方医術の基本書。中国医学(鍼灸を含む)の原典は伝説の皇帝・黄帝とその臣である6人の医師との対話記録『黄帝内経』(コウテイダイケイ)で、基礎理論を述べた「素問」と、鍼灸理論と実践について書かれた「霊樞」に分かれる。紀元前5〜3世紀頃成立か。本居宣長(24歳)は宝暦3年7月26日から堀元厚による両書の講釈を聴講する。


 1721年  享保6年 ◇13歳

○ 6月15日、福蔵寺浩天唯然和尚、中御門天皇から御綸旨拝受。
      一行七名に加わる。

※「享保六年丑五月八日出立、上京、大春禺蔵主、養順十三歳、左丹、左甚召伴、若党弐人、野仁記平長右衛門左丹ト以上七人」(「薬師縁起」浩天和尚晩年の備忘録と伝える)3-223・「妙心寺住持職事所有数請也、殊専仏法紹隆、可奉祈宝祚延長者、伏天気執達如件、享保六年六月十五日、権左中弁、浩天和尚禅室」2-12


  1727 年  享保12年 ◇ 19歳

○ 3月、『中臣祓(ナカトミノハラエ)風水草』写。

※奥書「先生之鈔其言古雅而含伝受之意説神書者、宜準則云。享保丁未弥生上浣、洞津谷川士清、明和八己丑六月下旬、淡斎先生秘書従五位下源重平拝借写畢」3-173。松岡玄達の闇斎節略本か(北岡説)→安永2年冬

※「中臣祓」とは、6月と12月晦日に朱雀門前で宣読された「大祓詞」を奏申形式に改め私的目的に使用したもの。平安中期から神祇官人だけでなく陰陽師までが個人祈願や陰陽道作法のために唱え流布した。垂加神道の基本経典は『日本書紀』神代・神武巻、「中臣祓」、「神道五部書」の三つ。

※松岡玄達(恕庵、埴鈴・1668〜1746)は本草家として著名。闇斎の弟子で垂加神道にも通じていた。蔵書家。「玄達と士清との師弟関係は一応概観すると、その享保十二年前後から始まり、十五年には上京、玄達の講筵に連なると共に、玄斎振武翁松岡仲良門にも遊ぶことになる」3-182

※垂加神道の根本経典は『風水草』、また垂加関係者には正親町公通、吉見幸和など「風水」を名乗る人が多い。「風水」は、伊勢宮勤式歌に「はらひ立る爰(ココ)」高天の原なれば、はらひ棄つるも荒磯の波」によるもので、「中臣祓」の精神でもある。



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