谷川士清先生略年譜 (21歳〜25歳)

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記号:○士清関係記事 ☆関係記事 ★不慮

1729 年 享保14年 ◇ 21 歳

○ 8月28日、谷川順端、『葦水草』書写。

※奥書「享保己酉純陽念八月写之了、盈科生谷順」3-173
※盈科(エイカ)は『孟子』離婁篇下、学問のゆっくりと進むこと。

○ 閏9月11日、谷川順端、『日本紀和歌解』(松岡玄達本)書写。

※奥書「享保己酉歳閏月十一日以埴鈴先生親本写畢、谷川盈科生」3-173

 

1730年  享保15年 ◇22歳

○ 2月、『続神皇正統記』 写。

※奥書「右先生親是正文字以授(校トモ)之時享保庚戌之歳、三月廿四日、谷川昇卯蔵」4-9。
契沖校本か。「先生」は樋口宗武か。4-46 →明和8年12月10日

○ 4月、上京。神道家・松岡雄淵(仲良)に入門、
    次いでその師・玉木正英(葦斎)に就く。

※「享十五庚戌四月日、谷川養順、応龍、−壬子九月二十八日許可」(「柄崎信徳筆録松岡先生門人名簿」)4-No.13

※松岡雄淵(仲良、玄斎、文雄、振武翁、渾成堂・1701〜1783)は神道家。尾張熱田社神主の家に生まれる。最初は吉見幸和に、京で若林強斎、玉木正英に学ぶ。『神道学則日本魂』刊行し正英から破門。弟子、士清、竹内式部など。

※若林強斎(1679-1732)は、浅見絅斎門人。契沖を評価。また辞書の編纂を待望。「釈慧沖ハ近来ノ者ナレドモ、アレホド仮名ニ熟シタル者ナシ。別シテ万葉ニ熟セル者ナリ。堂上サシモノ衆中ト云ヘドモ、一人モ衡(ハカリ)ヲ争フコトアタハズ。何故浮屠ニテアリシヤラント思ハルヽコトナリ」・「大和字彙ト云物ヲ編集スル積リ也。コレガ出来レバ重宝ナコトナリ」(『雑話続録』)10-158

※玉木正英(葦斎、五十鰭(イヒレ)、潮翁・1670〜1736)は神道家。
山崎闇斎−正親町公通−正英
橘家の子孫を自称し橘家神道を大成。両部習合説批判。その口授秘伝癖に非難有り。弟子に吉見幸和、松岡雄淵、士清、竹内式部など。

※谷鶯老人を『国書人名辞典』では正英とする。
【参考】前田勉「呪術師玉木正英と現人神」7-139 

○ 4月、『神功皇后論問答・室直清議神道書・同遊佐好士答書』
    (松岡玄達本)写。

※「神功皇后論問答・室直清議神道書・同遊佐好士答書」宣長本奥書(「読神功皇后論問答」)「寛永五年戊子重陽、仙台遊佐藤好生謹書」。(「室直清議神道書」)「元禄十年丁丑二月十有六日、室直清頓首再拝、木斎遊佐先生几前」。(「同遊佐好士答書」)「元禄十年丁丑季夏十有八日、遊佐好生頓首再拝、室敬所先生几前」。「享保拾伍庚戌歳孟春、埴鈴、孟夏之朔、昇卯謹謄焉、宝暦拾参歳次癸未晩夏十又七日以谷川翁所蔵之本謄写畢琢斎礪介麿、荒木田尚賢、安永十年乙(辛に直す)丑三月廿六日課男春村写之照校畢、本居宣長(花押)」。

○ 5月20日、玄達『日本書紀神代巻』講釈聴講(『神代巻埴鈴草』)。

※『神代巻埴鈴草』(『国書総目録』では雄淵著)の翻刻が出た。
松本丘編『垂加神道未公刊資料集 1』(皇學館大学神道研究所)
底本は神宮文庫(林崎文庫村井古巌奉納本)。
巻首に、「日本書紀巻第一、享保庚戌之歳五月廿日起講、昇卯録」とある。

○ 7月17日、慈遍『豊葦原神風和記』一校終わる。

※奥書「此和記者左大史小槻季連宿禰所持本也。類冊依有之附属正時畢、未練之人令書写歟、文字不正仍借請賀茂季栄県主本令比校以暇日可清書者也、元禄十三年庚辰二月十五日、享保四年臘月、同十五年庚戌七月十七日一校了、谷川昇卯」4-59 
本書は1340年成立、神道、天台の書。南朝思想の源流。垂加神道の根本経典『風水草』も慈遍『旧事玄義』を多く引く。慈遍は卜部(吉田)兼好の兄弟。→寛保元年11月、吉見幸和写『自従抄』書写。

○ 福井丹波守に医術を学ぶ。

※福井氏は折衷派(考証学派)の大医。4-5
 幕末、朝廷御典医として有名な榕亭、楓亭が出た。 
 門人江見将曹啓斎宛書簡に、〈我が医の師家福井〉という文言あり。4-80 
 江見は越後村上の人。寛政9年、宣長を来訪。


  1731 年  享保16年 ◇ 23歳

○ 3月28日、越の高田敬典に「送高田氏序」成る。在京。

※奥書「享保辛亥春三月廿八日平安学生谷川清謹書」4-84

○ 5月7日、小笠原家から生花許状を受ける。

○ 秋、松岡雄淵『神道学則日本魂』(シントウガクソクヤマトダマシヒ)
    附録答問を写す。

※「右振武翁所説、須部氏輯録、志殻子筆之云、于時享保歳時辛亥之秋也、谷川昇卯識」3-259

※「此君ヲ尊ンデ宝祚長久ヲ祈リ奉ル者ハ、反テ我国ノ一物也。只明ケテモ暮レテモ、君ハ千世マセマセト祝シ奉ルヨリ外、我国ニ生レシ人ノ魂ハナキハズ也。只此ノ日本魂ヲ失ヒ玉フナト、ヒタスラニ教ルハコノ故也」(「答問」)6-261

1732 年 享保17年 ◇ 24 歳

○ 春、那智山参詣。

○ 9月27日、玉木正英から神道許状を受ける同人述「神代巻八重柴籬」
  書写。(享保20年トモ)

※「神道許状、天児屋命之嫡伝垂加霊社直授相承之神道、汝篤志克務是以汝之師文雄諸伝悉面授口訣畢…玉木正英(印)享保十七年壬子九月廿七日、五鰭(花押)、谷川清丈」4-No.12 12-9

※「谷川淡斎士清初号幸助住于京都今住勢州津町」(「玉翁許可之門人」)
4-122

※垂加神道の名称は、「神垂以祈祷為先、冥加以正直為本」(『倭姫命世紀』/神道五部書の一つ)からと言われている。神の垂(シデ)は祈祷(イノリ)を以て先とし、冥加(ミョウガ・クラキノマス)は正直を以て本と為す。『垂加社語』

※「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」伝菅原道真
「神の垂とは、神の御恵みの下ることなり。神は恵ませ玉へども、人の方より祈らぬ者には便なし。ねぎごとは祈り也。祈る心は誠なれば、神の恵がしでかかり下ることなり。冥加とは、神慮を冥と云。神慮に叶ことなり。正直にさへあれば神慮に合との意なり。垂加霊社と云も、此文字を用玉ふ。神垂祈祷、冥加正直の八字を一生是を守てたがうまじと御誓もあり。さて、北野天神の御歌に、祈らずとても神や守らんと読玉ふを、会津の土津霊神説せ玉ひて、祈らば猶更守り玉はんと宣ふ。可尊ことなり。世俗はあしく読て、祈らずにすむと云は、甚心得そこなひたるもの也。」(伴部八重垣翁『神道初伝口授』)

○ 11月、玉木正英より亀卜伝口授受ける。同月『亀卜集説』
  同月21日『亀卜相伝秘事』書写

※『亀卜集説』(奥書「宝永二年酉八月三日橘正英、享保壬子十一月就翁親墨本書写之」)・『亀卜相伝秘事』(奥書「元禄辛巳中華大安日、洛陽渭水則栗原碩杲堂秀軒、享保壬子歳霜月廿一日、振々斎谷川清蔵」)※3-186

○『倭姫世紀磯波草』書写。

 

1733年  享保18年 ◇25歳

☆ 7月27日、(カゲエダ)、松岡雄淵に入門。

※「(享保十八年癸丑七月廿七日)勢鈴カ郡一身田河北重蔵経義」(「渾成堂門人名簿」)・「奄芸郡河北先生、祖積一身田人、幼遊京師、学儒業于松岡恕庵、受国典于玉置葦斎、或従谷眉山業成帰故閭云々」(『助辞鵠』序・藤堂高文、天明6年刊)3-207

★ 9月4日、弟順端(休住童子)没。

★ 松岡雄淵『神道学則日本魂』刊行し、玉木正英から破門。

※「道に従事する者も浅識局量、柱に膠し株を守り、ここに見るなく、往々巫祝の陋(セマ)きを免れず」と、暗に正英を批判する。一説には未熟な論を刊行したためとも。附録答問は、士清既に享保16年に写す。三好敬長跋の本が流布するが、京都大学に河北景?跋本有り(西田長男)。3-259



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