谷川士清先生略年譜 (65歳〜66歳)

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記号:○士清関係記事 ☆関係記事 ★不慮

1773 年 安永2年 ◇65歳

○ 正月14日、門人七里勘十郎より約盟を出す。

※「約盟、一先師契仲点本説々校合候、往々今案新説於有之者、以御相談可書添候、尤対先師説対捍私意挿申間敷候、且又未書等書写致候者猥ニ他覧之義停止可致候、依約盟申候処如件、安永二癸巳年正月十四日、七里勘十郎(花押)谷川翁」1-17 12-11

○ 2月5日、宣長書簡。

※書簡29。士清の『和訓栞』節略刊行案を否定。『都城弁』を批判。『栞』の序文のこと。「八尺の勾玉」、「かたくり」再説。「神武紀埃宮」の「埃」は「?」の誤字で「たけのみや」と読むか。二度の書簡への返信。

○ 2月、宣長『天祖都城弁弁』(※『天祖都城弁』への反論)届くか。

○ 3月13日、宣長、士清宛書簡。

※「きのふの御文まゐり来つき見参らせ候。いまた寒く候にたひらかにおはしまし候よしうけ給りいとうれしく候也。こなたも事なく過し侍るまゝ、御心やすくおほし(め)し可被下候。龍氏か栞の序見参らせ候。仰の如くかなのたかひおほく見え候也。御付紙の外に又々見出候処々しるしつけ遣し申候。尚又てにをはのたかひ一ツ二ツ申候。其外文詞のいと拙き事尚おほく候へ共さきに申し候うへはさのみやはとそんしこたみは不申候。愚序清書の事料紙御こし被下落手いたし候。ちかきほとにしたゝめ候て参せ候はんする也。まへに申候「ながさひ」の詞の事、此度いなせの仰なく候故、万葉のなかさへるをより処にて本のまゝに認て申候。又、川北氏か都城弁の論いかゝ候や、うけ給りたく候。此程殊に事しけく候故、何事もえ申さす今聞えん、あなかしこ、本居のり長、三月十三日、谷川の君の御許ニ白、」『筑波書店古書目録』第85号

☆ 9月、蓬莱尚賢、宣長を来訪。『古事記伝』稿本巻1上巻借覧。
    以後、本の貸し借り活発となる。

○ 11月7日、宣長宛書簡。

※来簡108。書簡三回落手しながら返事の遅滞をわびる。「古事記伝七御成業に就為御見被下、扨々精確之高論共と奉存候、可贊一辞之陋説も無御座候へ共、一二以切紙得御意候」。『神路記』、『神社再考』、『神都考』、『竟宴和歌集』、『活板和名抄』などのこと。「老体待死のみ」で、「眼力衰弱夜分灯下之看書も成不申候、以御憐察可被下候」と言う。

○ 冬、大河内重平に『中臣祓風水草』を伝与。

※奥書「右風水草十巻、垂加翁一生之精力在此書、重平朝臣依懇望之教有年矣、故授与之云、安永二年己巳冬、谷川士清謹識」(北岡蔵)3-174

☆ この年、蓬莱尚賢、『火忌説』刊。宣長に贈る。

☆ この年、木内石亭『雲根志』刊。

○ この年、吉澤好謙『信濃地名考』刊。『和訓栞』に加筆。

※三澤薫生氏は、本書を『和訓栞』典拠の一つとし、宣長が『本居宣長随筆』に引いた項目に清逸本には見られる本書の記事がないことに着目、を14-13

☆ この年、「本居宣長四十四歳自画自賛像」。


1774 年 安永3年 ◇66歳

○ 正月18日、宣長宛書簡。

※来簡109。返却の『倭名類聚抄』受領。『古事記伝』巻4拝借を願う。『栞』彫刻に着手したがまだ板本は一冊も出来ていない。『神路記』が南朝を偽朝とするのはこの本の疵である。『大日本史』正統を正したのは注目すべきである。『神都考』は都合がついたらお願いしたい。萱生の『神朝廷記』は出版されたか。『吉部秘訓抄』・『雲図抄等』は所蔵しない。京都に問い合わせる。

○ 春、『読大日本史私記』を草して服部保佑に示す。

※巻首「訓侯ノ御本ヲ拝借シ、読ニ随テ筆ス。敢テ水戸侯ニ対捍スルニ非ズ。彰考館ノ史臣ヲ批評スル也、謹テ以服部氏ノ梧右ニ呈ス。安永甲午歳仲昏之日、谷川士清」1-29

○ 3月、『勾玉考・石剣頭考・臼石考』成る。

※奥書「安永甲午之歳三月、洞津谷川士清識、右勾玉考一篇刻諸家塾以貽同志、只省転写之労耳、不許発売、于大方射利云」(意訳:右勾玉考一篇をこれ家塾に刻し同志に貽(オク)るはただ転写の労

○ 5月4日、荒木田経雅宛書簡。

※『日本書紀』崇神巻校合につき返却延引のこと了承。尚賢の長崎行きのことなど。経雅、安永二年神宮正員禰宜となってから士清、宣長に学ぶ。3-267

○ 10月、度会光隆、『勾玉考』序を撰す。

※「安永甲午孟冬、勢南正六位上度会神主光隆」1-184

○ 門人三井丹丘(46歳)、師の肖像画を描く。

※「谷川先生【士清号淡斎】六十六載之像、門人井?(セイ・アキラ)、印二顆(建・子)」賛は「偶心、未観春草生、遙聞飛雁声、蹉今日事、寸心属月明、士清拝稿」12-口絵、30・『21世紀の本居宣長』(朝日新聞社)・『勢和村史』資料編2

☆ 年末、宣長『授業門人姓名録』記帳を開始する。



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