midashi_o.gif 谷川士清タニガワ・コトスガ)

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 宝永6年(1709)2月26日〜安永5年(1776)10月10日。
 歩くデータベースのような人。
 伊勢国安濃郡刑部村(三重県津市八町)に生まれる。
 本業は産科の医者。垂加神道家。
 通称、養順。号、淡斎。社号、振々霊社、森蔭社。
 代表作は、『日本書紀通証』35巻(1751年脱稿・1762年刊行)、『倭訓栞』93巻(ワクンノシオリ・ワクンカン)。
 特に今の国語辞典の先駆けとなった『倭訓栞』では、学問の幅が和漢にわたった士清の博識ぶりを遺憾なく発揮。

 賀茂真淵は士清の学問を批判的に見ていた。宣長も、一番最初に士清に送った書簡はその学問を批判する内容。
 しかし、真淵が没後は、宣長と士清は親しく交わり、『古事記伝』や『倭訓栞』(序は宣長筆)などの著作については忌憚なく意見を述べあい、蔵書の貸し借りなども頻繁。二人の間を取り持ったのは、最初は宣長妻の実家・草深家。その後は蓬莱尚賢。尚賢は士清の娘婿で、後に宣長に入門。

 没する前年の安永4年5月、近くの古世子明神(現在の谷川神社)境内に草稿類を埋め「反古塚」を建てた。
 碑の裏面に「何故に砕きし身ぞと人問はばそれと答む日本魂」と言う歌が刻まれる。
 原稿を捨てるというのは旧派の学者がよく行ったこと。余談だが、上田秋成も原稿を井戸に捨てたが、門人が密かに拾ってきたと言う話もある。
 「反古塚」が出来てから、三日にわたり玉虫がそこに集まった。
 これは奇瑞だと士清は諸家に歌を募集し、宣長はじめその一門も歌を寄せた。

 晩年、藤堂藩に水戸学が入ってからは、士清やその一門は排斥されたが、『倭訓栞』の刊行は家の仕事として継承された。結局、後編18巻が出たのは明治20年(1887)で、刊行が開始された安永6年(1777)から実に110年が経過していた。
 また銅鐸を所有(現在、津市専修寺所蔵)していたことからも分かるように考古趣味もあり、『勾玉考』と言う著書もあり、石の長者・木内石亭とも交わる。
 国指定史跡・谷川士清旧宅は今も津市八町三丁目に残る。近くに墓、反古塚がある。


>>「荒木田尚賢」
>>「かたくりとかたかご」
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(C) 本居宣長記念館


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