父・定利の死

 元文5年3月、父定利、は江戸店建て直しのため江戸に出立する。体の調子が思わしくなかったのか、同月、遺言を執筆する。
 元文5年3月付、小津源四郎、同宗五郎、両家手代中宛の主たる内容は次の通り。

  1. 唱阿の遺言で小津八郎治と共同経営していたが、八郎治に損失が生じ「五年以前辰ノ年町内より合力を請相続致候得とも、借金夥敷有」ったので、有金も借金共に引き取った。依って八郎治分は無い。ただ小遣いだけは渡していた。所が今回の不都合で店の存続も危うくなってきたので、有り金を以て借金の返済に充て、残った金はたばこ店で運用するようにした。蔵店名代など資産を処分すると少々は残金も出るだろうが、その時も八郎治分は無い。ただ余裕が出てきたら小遣いとして渡すとよい。金額はその時による。
  2. 嘉兵衛、八郎兵衛に渡す金額。
  3. 宗五郎に相続の意志がないときは、富之助に相続させること。
  4. 八郎兵衛が店をつぶしたやり口は何とも理解が出来ないので以上のように記す。 また、「覚」に嘉兵衛等に渡す分その他を記す。(『松阪市史』・12-513)。 定利は、経営破綻の遠因は八郎次の失敗と、その息子の八郎兵衛の悪行にあると考えていたようである。因みに八郎次は「富之助」命名者である。
 5月、江戸の父定利は、再度、遺言を執筆する。
 5通ある。1枚は付紙。
(1)おかつ宛・「申ノ五月日」。主たる内容は次の通り。
  1. 私が死んだら、体に気を付け、子供を育て、先祖の名跡を相続させるようにすること。そちら(其元)の借金は返済したはずである。
  2. 「覚」として金の分配方法。
  3. 江戸店はどうなるか分からないが万が一の時はそちらで残した資本で渡世すること。 付紙、おかつ宛・八郎兵衛の所業は理解に苦しむ。世話など頼むことはしてはいけない。宗五郎が次いでくれない時は、(隠居家)源四郎の手代の力を借りて小さくても店を維持し、富之助の成人まで持ちこたえて欲しい。
(2)小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛  
伊勢には別紙で指示しておいたが八郎兵衛には50両渡すこと。名跡は宗五郎の病気が快気したら江戸に来て相続させたいが、望み無いときは富之助にしたい。
(3)小津忠兵衛、同武兵衛、左七宛
八郎兵衛の所業は理解に苦しむ。世話など頼むことはしてはいけない。名跡は宗五郎に譲りたいが、望み無いときは富之助にしたい。
(4)小津忠兵衛、同武兵衛、左七、八郎兵衛宛  
私の死亡時には手続きを行い、借金を返済し、こちらが済んだら伊勢の方を片付けてほしい。詳しくは伊勢に書き記した物を置いてあるのでそのようにして先祖名跡相続するようにしていただきたい。(『松阪市史』・12-514)

 それから3ヶ月後、閏7月23日、父定利は江戸店にて病死した。法号は場誉直観道樹大徳。遺骨は江戸本誓寺と樹敬寺に分骨した。『本居氏系図』「本家譜」には、「元文五年庚申閏七月喪考」(宣長全集・20-85)。『家のむかし物語』には
「元文五年庚申の三月に、江戸に下り給ひ、其年の閏七月病して、廿三日の夜の戌ノ時ばかりに、かしこの大伝馬町一町目の店にして、四十六歳にてかくれ給ひぬ 、忌日をば廿四日とす、火葬して、遺骨をかの地の本誓寺と、こゝの樹敬寺とに分ちをさめぬ」(宣長全集・20-23)
とある。
 訃報が届いた夜を次のように回想する。
「元文五年、十一歳の時、道樹君におくれまゐらせぬ、そもそもそのをりの事よ、かくれ給ひぬるよし江戸より、早便して告おこせたる、それよりさきに、おもく病み給ふよし告たる状と、事きれ給へるよし告たると、同じ夜に、ふけて来つきて、門たゝきてもて来たるに、恵勝大姉のいみしく驚きて、かなしみ泣給ひしこと、われもわらは心に、いとかなしかりし事など、今もほのかにおぼえたるを、思ひ出るも、夢のやうにかなし、かの御面影は、たしかにおぼえてある也」(宣長全集・20-27)。


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