midashi_p.gif 豆腐

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 膨大な記録を残した宣長だが、存外、食べ物についての好みは書き残していない。晩年『玉勝間』の中で、食事は、普段は羮(アツモノ)一つ、菜(アハセ)にて充分で、松坂の飽きたらぬのは鯉・鮒・くわい・蓮根が少ないことということから、普段は粗食で、食材も京風がお好きだったのかと思うくらい。
 そこで、諸状況から推測するのだが、まず婚礼や行事の際の本膳料理は除く、すると日常的には「豆腐」という食べ物の存在が際だっていることに気づく。
 豆腐のような碁盤の目の京の町で、宣長は23歳から5年間を過ごしているが、その『在京日記』の中でも、京都各所で豆腐を食べ、一時帰国の道中の際にも東海道目川の名物・菜めしと田楽豆腐をうまいうまいと食べ、翌日、鈴鹿峠を越えた関宿でも湯豆腐を賞味し、京都にも劣らぬ位と評している。
 宣長の時代は豆腐料理のピークであった。天明年間(1781〜1789)、『豆腐百珍』(天明元年序)が出て、豆腐と「百珍物」がブームになった。豆腐の調理法を、木の芽田楽から真のうどん豆腐まで、尋常品、通品、佳品、奇品、妙品、絶品の6等に分かち記した本で、醒狂道人可必醇著。この人は曽谷学川ではないかと推定されている。学川であるなら片山北海、高芙蓉の弟子である。北海は武川幸順の知人で、その墓誌を書いた人だ。芙蓉は池大雅、韓天寿と三岳道人と称される。
 但しこれは、宣長の豆腐好きとは直接は関係ない。
 65歳の時の和歌山行きには、弟子の大平が小遣い帳を残すが、やはり豆腐一丁12文の記事が目に付く。豆腐の値段が各地で同じというのも面白いが、「廿六文、醤油、とうふ」とあるのは二丁としょうゆを合わせて買ったのだろう。冬のことだから、冷や奴ではなく、湯豆腐にでもしたのだろう。
 そういえば、大平も家業は豆腐屋である。豆腐の目利きが豆腐を買って先生の食卓に供するのである。
 宣長は大平の父棟隆(実はこの人も宣長の門人であり友人であるのだが)の求めで、豆腐の雅名を「みかべ」と付けたことがある。その「稲掛棟隆が家の業のみかべの詞又其長歌」の中で宣長は豆腐を次のように賞賛する。
 「値安くて卑しからず、味わい淡くて雅びたれば、月に日にけにいやめづらに、くさぐさ調えて、高き短き人皆の、朝な夕なと愛で食う物なり」 お世辞ではなく、存外本心から言ったのかもしれない。


【参考文献】
『新撰豆腐百珍』林春隆著、原本・岡倉書房、昭和10年7月刊。再刊・中公文庫。


> >「稲懸豆腐店」

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