midashi_b 注目の的「鈴屋衣」

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ら ん

和歌子

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ら ん 『キ(玉偏に幾)舜問答』にはどんな話が載っていますか?
和歌子 本書は、『人見キ(玉偏に幾)邑本居宣長 面話之次第』とも言い、寛政4年3月9日、名古屋における尾張藩の儒学者人見キ(玉偏に幾)邑と宣長の対談筆記です。関係箇所を引いてみましょう。
「○翁の着物は、何と云ふ物ぞ、拠ある事にや、
△拠はなし、唯物数奇にして、工夫して拵しなり。
○左には非じ、何ぞ拠あるべし、神代の服など学びたらんには、美し過たり。(賓主 ともに嗤ふ。)
△誠に拠なし。本田伊勢君(清造注・伊予君ノ誤ニテ、伊勢国神戸ノ城主ナルベシ)の御隠居なども、強て問玉ひし。其後借りて、型など出来し。」
 本田の御隠居は、寛政4年閏2月16日に、家来で俳諧師の川素里を連れて宣長を来訪した本田瑞翁殿のことです。瑞翁は神戸藩2代藩主忠永(1724〜1817)で、号は清秋、俳諧を得意としました。没後、儒臣長野潜が「思徳之碑」を観音寺境内に建て、徳を讃えた。『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』には「俳人 歌学ズキ」とコメントがあります。
ら ん 変わった着物ね。
和歌子 人見に古代の服ではと勘ぐられたのには訳があります。師の真淵がどうやら古代の服を作って着ていたらしいのです。
「(枝直は)与加茂真淵友善、加茂氏歳首歌会、真淵製古服衣之、枝直之不懌曰、生今之世、当服今時服耳」(『続近世叢語』角田九華著・弘化2年)。加藤枝直は真淵の門人でもあり、庇護者でもあった人ですが、その彼が、新年の歌会で真淵が着ていた古代風の着物をよろこばず、今の時代に生きるものは今の服を着るべきだと言ったというのです。儒学全盛の時代に日本の古典を尊重して、しかも変わった服を着ていると、まるで好事家の親玉みたいに見られると思ったのかも知れませんね。でも宣長は、古代に復えるなどと考えてこの衣を作ったのではありません。拠り所は無いと明言しています。結局は好みね。

「本居宣長四十四歳自画自賛像」(衣部分)

「本居宣長四十四歳自画自賛像」(衣部分)



(C) 本居宣長記念館


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