中学生に導かれて

 国語学者・山田孝雄に「中学生に導かれて」という文章がある。転載する。

「中學生に導かれて 山田孝雄

 私は今世間から日本文法の専門研究をする為に生まれた人間のやうに見られてゐるやうであり、又辞書の編纂に心を専らにしなければならぬ為に大学を辞したので、これも亦私の畢生の事業といふ事になりさうな様子である。所が実はいづれも私としては予期しなかつたのに、かやうになつたので、いはゞ運命なのであらう。こゝにその一である文法の研究に没頭するやうになつた事情を簡単に物語る。
 私は明治二十九年に丹波篠山の鳳鳴義塾といふ私立中学校の教員として赴任した。この時はじめて中学校の教師となつたのであるが、赴任して間も無い頃に起つた事と覚えてゐる。元来この国語の教科書は私の赴任前から定められてゐて、私はたゞそれを用ゐて教授すればよいだけになつていた。その時の教科書の著者も署名も今、公にいふ事を控へるがとにかくにその教科書を使つて形の如くに教授してゐた。所が二年生の文法の教授に当つて思ひもよらぬ問題に出逢つたのである。その教科書には主格を示す助詞として「の」「が」「は」の三をあげてそれぞれの説明を加へてあつた。ここに或る一人の生徒が(その人は今、軍人として将官の地位にゐる人であらうと思ふ)「の」「が」が主格を示すというふ事はわかるが、「は」が主格を示すものであるといふ事はわからぬ。「は」は主格で無い場合にも用ゐるでは無いかといふ様な意味の質問であつたと記憶してゐる。文法に関する私の知識の貧弱な事は今も、もとよりであるが、その当時はお話にもならぬ程度で、ただ教科書の取次をするに過ぎなかつた事はいふまでも無い。この質問を受けた私は頗るまごついたのであつた。どうも考へてみると、その生徒の質問は道理の在るやうに考へらるゝ。さりとて教科書にでたらめを書いてある筈も無いと思はるゝによつて私はこゝにはたと行き詰つたが、みだりに生徒の質問を排斥するのは不都合な事であり、さりとて教科書を誤りとするだけの見識も私には無かつた。そこで次の授業時間まで熟考するといふ事にして、一時その場はのがれた訳であつた。さて一週日の間千思万考するに、その教科書の説を生かすべき理由はどうしても見出されず、その生徒の質問はますます道理あることが明かに考へられて終には動すことの出来ない事であると考ふるやうになつた。そこで止むを得ず、私は次の授業の際に、私の研究の結果、教科書の説明が承認し難いものであつて、その某生の質問の方が道理であると思ふ旨を告げた。なほ当時著名な大家の著でもあり、又文部省が検定して、よいと銘を打つた書をば、青二才の私が否認するのは僭上の沙汰ともいふべき事である。さりとて真理はごまかす事の出来ぬものである。そこで私は上述の事由をそのまゝ生徒に告白してかやうな教科書を、盲目的に用ゐてゐる事の不明を、公に生徒にあやまつたのである。
 それから、私はこの問題について正しい説を延べてゐる本が他に有るであらうと、手広く文法書を見たが、更にそのやうな点に触れているものが無い。そこで考へた。かやうに中学二年でもその誤がわかるやうな事を天下の大家先生に分からぬといふ道理が無いによつて、いづれ、何等かの方法で、この正しい説を発表する人があるであらうと、新聞、雑誌又新刊の書等について日本文法に関して発表する諸説に注意を極端にむけてゐた。かやうにして一箇年以上を過ぎてしまつたが、一向何等の事も見られないのである。私はこゝに更に考へた。これは容易ならぬ事である。大家といはるゝ人が、中学生でもわかるやうな誤謬を平気で説いてさて誰一人もそれを改め訂す人も無いとは余りにも情無い事である。かやうな事ではわが国語は将来といはず、遠からぬうちに悲惨な状態に陥るのでは無いか。誰がこれを救ふんであるかと世界を見まはせどもいづれも殆ど同様に、白日夢まどかといふ様な有様であつた。こゝにふと我にかへつて考へたのは、自分の本来の目的は文法といふ如き小問題には無いのではあるけれども、この悲惨事を見過して知らぬ顔して通る訳には行かぬと思ふ。これは誠に止むを得ぬ事である。火事は見付けた人間が首唱して消さねばならぬといふ事はこの事であらうとこゝに決心の臍をかため、本来の目的はまづあとゝして、この文法の悲惨事を消し止めねばならぬとこゝに自ら研究に着手した訳である。即ち私は中学二年生の指導によつて爾来、日本文法を研究して他を顧みること能はざる運命に置かれたのである。
 かやうな訳で私の文法研究の中心点は「は」といふ助詞の本性の研究であつた。所で、これについては当時の古今の文法書が一として役に立つものが無いといつてもよい程の有様であつた。たゞ「は」を特色あるものとして取扱つてあるのは本居宣長の「詞の玉緒」である。しかるに宣長の係詞といふものゝ本体が一向にわからないのであつた。そこで、私は禍源は「詞の玉緒」にあるのであらうと思ひ「詞の玉緒」を打破するにあらずは国語の真価は分らぬのであらうと思つた。そこで一方では「詞の玉緒」をめの敵のやうにし、一方では一切の文法現象の上に横はる理法とその奥に存する本性とをつきとめようとした。これについては随分むだな事をしたと思ふ事もあるが、しかし、それもやはり一の学問で在つたと今は思ふ。かやうにして種々の方面から研究した為に、日本文法の全体の上には国語独自の本性に基づいた新たな体系なり理法なりが漸次に見出されやうになるといふ予想がつき、それが段々煎じつめられて、具体的にわかるやうに思はれて来たが、やはりわからないのは「は」の本質であつた。それが為に、いろいろと研究したものが、いつもこゝで行詰りになり、ほとほと進退谷まつたといふ有様であつた。所が明治三十四年の秋頃と思ふ。一旦豁然として「は」の本来の面目が分つた。その時は真に愉快でたまらぬ。誰一人、私の説を理解してくれる人も無かつたけれども、自分は愉快で愉快で三日許は、毎晩床に就いてもうれしくてねむられなかつた事は今日もありありと記憶に存する。
 さて、さやうにして「は」の本質が分かつた後に、「詞の玉緒」をよみなほして見れば、私の研究して得た結果と実は同じ精神で「詞の玉緒」に書かれてあるので、それを後の学者が、曲解した為に分らなくなつたといふ事の真相をつきとめた。こゝに於いて私は流石に本居宣長といふ人の頭脳の明晰なのに驚いたと共に、今まで敵のやうにして来た罪にをのゝいたのである。かやうにして「は」の本質がわかつてからは、以前に研究しておいた部分が、皆一の生命によつて生くるものゝ如く、ばたばたと組織と系統とを有することになつたのである。即ち私の文法研究は「は」の疑問にその緒を発し、「は」の研究の結果によつて結末をつけたのであつた。
 私の文法研究が中学生に指導せられたといふ事は、以上述べた通りの事で一の誇張も無い。最近、故郷の中学校で、中学二年であつた私の事を物語つた際に、右の様の事も述べたのであつたが、本誌の求めにより、それを思ひ出してこゝへ書きつけたのである。」
         『読書随筆』昭和13年3月7日・矢の倉書店発行。



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