midashi_b 注釈とは創造でもある

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 注釈というと、古い本を辞書などをひっくり返し、意味を書いていく、辛気くさい仕事だと思うだろう。でも、それは学校の英語や古文の時間の注釈で、宣長の生涯をかけて行ったのはもっとダイナミックで創造的な営為であった。
 注釈は、テキストの背後にあるものまで解読する作業だ。そのためには、言葉はもちろん、風俗から、法律やまた自然環境まで把握していないといけない。
 それだけなら、博識な人でも出来る。ところが宣長は違う。それに時間の流れまで加わっていた。言葉なら意味がどのように移り変わってきたのか、また和歌のスタイルの変遷など、あらゆる事柄の変化の過程が頭に入っていた。そして、テキストをしっかり読み、想像力を働かせていたのだ。

 「今の大阪市街は中世以前は葦のしげった低湿地でした。『土左日記』や謡曲の『葦刈』などで、はっきりしますので、今の読者なら、容易に理解できますが、そういうものを読んでも、(地理の知識や地学観念の無い・引用者注)近世の研究者はただ扱い方に困るばかりで、丹念な名所研究をしている契沖でさえ殆んど手がつけられない有様です。他は推して知るべし、でしょう。
 例外は本居宣長です。「すみのえとすみよし」の場合でも、各時代の文学(又は、文献)にあらわれた地名を綜合しながら、古代の低湿地が次第に陸化してゆく進行過程を的確に把握しているのは壮観というより偉観というべきでしょう。所謂「地学」とは関係がなくなされている作業です。
 こういうことは宣長の学問の一端だと言ってしまえばそれまでですが、「地名とは註釈されねばならないものだ」、という訓詁への情熱の激しさと考えられることです。宣長によって、その意味が宣揚された地名は枚挙にいとまがないことです。 『菅笠日記』(宣長四十三歳、『古事記伝』の著作が軌道に乗ってきた充実した時です)なる紀行文があります。昔、私どもの旧制中学の教科書にその文章がよくとりあげられていました。この旅行の動機は、宣長の父が吉野水分神社に祈って宣長が誕生したというので、その参詣は宣長にとっては宿願となっていた、そのためです。文章は雅文調で、吉野・初瀬をへて、飛鳥に出て大和平野を北上するというコースで、途中の名所旧跡を丁寧にたどっています。一読すると、満ち足りた老風流人の気のはらない遊山、という印象をうけます、しかし、『古事記伝』と比較してみると、内容はよく『古事記伝』に摂取されています。つまり、充分な準備を整えた上での、『古事記伝』述作のための調査研究旅行であることは明らかです。そうわかると、おだやかな文体の紀行文が俄に緊張した油断のない調査研究旅行であることに衝たれる思いがします。
 『菅笠日記』について斯様な理解をしたものはまだないように思います。この件を追求すれば、『古事記伝』或いは宣長学の理解に新しい展望をひらくことが出来る、と思います。 その土地土地の固有の意味についての激しい興味が宣長の学問の核心部分を形成していることは明らかでしょう。
 『古事記伝』の魅力の重要な部分も、そういう情熱であるように思います。」
「篠田君の場合、宣長の議論が註釈すべき対象から目をそらすことなく、的確に柔軟に問題にすべき事にせまってゆくところ、それが「美しいのだ」と考えていたようである。その「美しさ」こそが篠田君の宣長への傾倒の中心をなしていた。」
 (「歌枕書問 篠田一士氏との往復書簡」奥村恒哉・奥村最終書簡、同添え書きより)

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