midashi_g.gif 和歌山

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 若山とも書く。松坂を支配した紀州藩の城下町である。宣長は寛政4年、5人扶持で召し抱えられ。同6年10月発出府した。

 紀州は、木ノ国とも言われる程、緑の多い土地。和歌山市郊外の伊太祁曽(イタキソ)神社は、五十猛(イダケル)神を祀るが、『日本書紀』によれば、この神が降臨の時に多くの樹種を持ってきて日本中に蒔き、青山としたという。

 中世には「雑賀(サイカ)」と呼ばれたこの地が「和歌山」となったのは、天正13年(1585)豊臣秀吉が紀州を平定し、吹上の浜の岡山(虎臥山)に城を築き、和歌山城と命名して以降。ちなみに「松坂」は天正16年(1588)に築城、命名で少し遅れる。和歌山の地名の語源は、南に名勝「和歌の浦」があるので、海に対して山としたという説がある。
 徳川の世となってからは、紀州徳川家55万5千石の城下町として栄える。明治8年(1875)の人口は全国で9番目という数字を見ても、江戸時代のこの町の規模が想像できる。また、伊勢国松坂町を支配したのもこの和歌山藩であった。

 北を流れる紀ノ川は、上流を吉野川と言い、全長135kmの大河。古代から江戸時代まで、和歌の浦を訪れる人はこの川沿いに下ってきた。伊勢から来た宣長一行も、橋本から船に乗り、和歌山入りをした。因みに、今回は橋本にも赴き、船着き場を探したが、大凡の位置だけしか確認することが出来なかった。地元で調べている方にも尋ねたが、遺跡、遺品と言えるものは残っていないとのことであった。

 宣長が初めてこの町を訪れたのが寛政6年(1794)。本居大平一家がこの町に住むようになったのが文化6年(1809)。明治元年(1868)に、本居豊穎は貢士(藩論を代表する議事官で定員は大藩三名、中藩二名、小藩一名)に選ばれた。このように明治初期まで和歌山と本居家は密接な関係を持つ。


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