midashi_b 和歌山での187日

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 宣長が和歌山に行ったのは、65歳、70歳、71,2歳の3回。滞在日数は184泊、187日。松坂から4日をかけて赴いたのは藩主治宝への御前講義が目的だったのだが、では何日講釈をしたのかと言うと、僅かに、藩主9日、清信院と備姫3日、計12日である。

 講釈した本とその概要は次の通り。「大祓詞」と『万葉集』巻1は国学の基本を知るための本。『古語拾遺』。『詠歌大概』は和歌の基本書。『源氏物語』帚木巻(藩主のお好み)、若紫巻、初音巻。『古今集』序はやはり和歌の基本書。ここに「小野小町は衣通姫の流れなり」と出てくる。同、大歌所歌など。

 では、たった12日しか御前講義をせず、後は何をしていたのであろうか。
 公式行事(藩主出立の供揃えや改元の通知、出張旅費や拝領品の下賜など)もあるが、圧倒的に多いのが挨拶廻りである。特に最初の65歳の時には、68日間の滞在中、挨拶廻りが10日以上もある。宣長はこのようなこともきちんと抜かりなく出来る人で、挨拶廻りの順や土産物の手配(宣長の土産は「川俣茶」)などのマニュアルも作成していた。

 それにしても忙しい晩年、なぜ宣長は頑張ったのか。それは師賀茂真淵や自分が生涯をかけた新しい学問「国学」を、社会に認知させるためであった。挨拶廻りと書類提出に象徴される官僚機構はすでに確立していた。それを宣長は逆手にとったのである。

 和歌山での日も宣長は無駄にせず、旅宿では連日連夜講釈をし、日前宮での『玉鉾百首』の出張講釈や、一泊泊まりで有田にある須佐神社で付近の国学に関心ある人に話をしたり、また玉津島神社など古社や名所を廻ったりと精力的に活動した。時には、藩要人の家で開かれる歌会に招かれ、饗宴され、息女の琴や歌を聴き楽しんだこともある。

 これも最初の和歌山行きの時だが、ある日、玉津島神社の帰り、宣長は徒歩で帰ろうとするが、大平が「この前足を痛めたのに無理してはいけない」とたしなめ、船で帰ったということもあった。

 3回の和歌山行きで、宣長は10人扶持に加増され、奥詰となり、また大平の跡目を許可され、大成功裡に終わった。しかし、そんな世俗的なことではなく、この町を歩き、宣長の足跡をたどる時、宣長を迎えた和歌山の人たちの、学問をする歓びが、今も伝わってくるような気がする。

 日くるればあかずわかれて紀の川やおもかげにたつわかのうら波  宣長



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