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宝暦9年(1759)3月5日(一説に16日)〜天保元年(1830)12月23日。享年72歳。
通称、造酒。名は堅石。家号、楽山二幸楼。重名は日野資枝の命名。豊前中津(大分県中津市)の神官の子として生まれた。安永5年上京。天明2年、再び上京し、その途中、荒木田久老に入門。また宣長宅にも寄る。
『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』天明2年条に
「同十二月○豊前国中津城下、八幡社司渡辺造酒(ミキ)藤原重慎」
とある。
同4年、衣紋家の高倉家、歌道で日野資枝に入門。同5年、『衝口発』論争の火種をつける。またこの年、橋本経亮秘蔵の『万葉集』古写本で校合をする。同6年には従五位下に叙せられ上野介に任ぜられた。同7年、本居宣長に入門した。
『授業門人姓名録』に
「豊前中津、古表八幡社司 渡辺上野介、藤重名」
とあり二重丸が付く。
寛政2年(1792)初夏、『馭戎慨言』序を書く。同年、中津藩校脩学館創設に伴い国学教授となる。性格は豪放磊落。「歌道に秀でた知識人で行動的」と江湖山恒明(『日本古典文学大事典』)は推測する。
こんな話もある。東海道を旅する重名はある夜、按摩を呼んだ。按摩がそのからだに驚き、身分不相応な体で、若い時は相撲取りでもしていたかと尋ねたので、いや、持病の癪があり、痛い時には砧槌(木槌のようなもの)で叩いたのでこんなに体が固くなったのだと言うと、按摩は驚き感心した。筋骨隆々の人だったようだ。
>>「『衝口発』論争の仕掛け人」
>>「荒木田久老」
>>「橋本経亮」
>>『馭戎慨言』
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