何が描かれているのかな?
らんさんと和歌子さんの会話
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らんさんは
松阪の子で20歳、
美術史専攻の学生。
ら ん
和歌子
和歌子さんは
28歳の学芸員。
ら ん
人が集まっているけど、これはなに?
和歌子
「鈴屋円居の図」と呼ばれている絵で、明和年間の宣長とその仲間です。厳密に言えばこの名称は問題があるけど、わかるかな。
ら ん
わからないよ。
和歌子
「鈴屋」は本来書斎の名前なの。書斎を増築したのは天明2年(1782)。明和年間は1764年から72年までだから、「鈴屋」は存在しなかったことになるでしょう。
ら ん
じゃあ、どう呼ぶの?
和歌子
実は松阪市魚町の旧家にね、このもとになった絵が伝わっているの。それの名前は「明和年間本居社中歌仙像」で、長いけどこちらの方が正確ね。
でも「鈴屋円居の図」は文政10年(1813)に大平が昔を懐かしんで写させたもの。宣長先生の若かった頃は楽しかったなあ。でもみんな死んじゃったなあ・・・と言う気持ちで写したのだから、広い意味ではまちがいではないの。だって須賀直見は「鈴屋」増築以前に亡くなっているけど、「鈴屋門人」って呼んでいるのと同じでしょ。「鈴屋」というのは宣長先生の代名詞なのよ。
ら ん
この人たち変な服着ているね。
和歌子
違う服着た人がいるでしょ。
ら ん
色かな。
和歌子
色ではなくって形。
ら ん
よくわからないけど、黒い色の二人かな。
和歌子
そう。正面を向いている人、髪の毛ないでしょ
「鈴屋円居の図」
戒言アップ
ら ん
うん。全然無いね。
和歌子
実はお坊さん。着ているのは墨染め衣。
原本では袈裟だってすぐに分かるわよ。
「明和年間本居社中
歌仙像」 戒言アップ
和歌子
向かって左の黒い人は、これが宣長先生。着ているのは「十徳」、描いてあるとほとんど羽織と変わらないけど。昔のお医者さんはこれを着ていたの。
さて、緑や薄い水色の着物、これはお公家さんたちが着た「狩衣」という着物だろうと言われているの。頭に被っているのは「風折烏帽子」。
ら ん
じゃあこの人たち貴族なの!
和歌子
ううん。松坂の商店主さんよ。
ら ん
???
和歌子
歌を詠むときに、まず形からってわけ。和歌は『万葉集』の時代には庶民も詠んでいたけど、平安時代になってお公家さんの専有物化して洗練されたでしょ。宣長たちの理想としたのはその時代の和歌。だから格好も似せたわけ。
ら ん
「姿は似せがたく、意は似せやすし」ね。
和歌子
とんでもないこと知ってるね。
ら ん
大学の入試問題で出たのよ。
ねえ、松坂の商店主さんたちは歌を詠むときいつもこんな着物着たの?
和歌子
正月の歌会の時くらいだと思うよ。
ら ん
和歌会の規定はないの。
和歌子
ずっと後、宣長先生が亡くなる直前には、普段の講釈や歌会は羽織、袴着用。正月の講釈(年始開講)は先生は十徳。他は麻裃。正月の歌会は先生が居士衣で、それぞれ身分相応の礼服、また麻裃とか袴に決められたけど。
ら ん
狩衣って本当に着てたの?
和歌子
宣長やお坊さんの着物を描き分けているから、本当かもしれないわよ。松坂の商人って江戸で稼いで、遊びは京都風だから、理想は京都よ。
ら ん
宣長さんも京都が好きだもんね。
和歌子
そうよ。
ら ん
何か紙を持っているわね。
和歌子
歌を書く懐紙でしょうね。自分の歌か人の歌を眺めて考えているのかしら。
ら ん
よそ見している人もいるよ。描かれている人の名前はわかるの?
和歌子
上の歌が対応しているからわかるのよ。向かって右から村坂高行、長谷川常雄、稲懸茂穂(大平)、竹内元之、戒言、世古中行、須賀直見、宣長、稲懸棟隆。みんな嶺松院歌会のメンバーよ。
ら ん
次は宣長さんね。
「明和年間本居
社中 歌仙像」
宣長のアップ
「鈴屋円居の図」
宣長アップ
和歌子
でも原本とは少し顔が違うの。
ら ん
へえー、若い。
和歌子
どちらが近いかはわからないけど、大平のは自分の心の中の先生像で少し理想化されているかもしれません。着物は十徳といって医者としての正装であることは先程言ったとおりです。鈴屋衣はまだ着てないですね。でももうあったはずですけど。
ら ん
稲懸棟隆は大平のお父さんね。
和歌子
棟隆は享保15年正月19日に生まれました。宣長先生と同い年です。本姓は山口氏。通称は安次郎。十兵衛。稲懸家の養子となり、須賀直見から譲られた豆腐の道具で豆腐屋を開業しました。なかなか学問もあり面白い人で、本町の家も凝った造りで、宣長の文章が遺っています。寛政12年に亡くなりました。享年は71歳です。
ら ん
宣長さんって豆腐が好きだったて聞いたけどほんと?
和歌子
先生は普段から粗食で、好きだったというのは本当みたいよ。
でもその事と棟隆とは関係があるかしら?
ら ん
豆腐のお得意さんが魚町の本居春庵さんなんてね。
和歌子
「もののあわれ」って知ってるでしょう。実はね、宣長先生は、自分が「もののあわれ」と言うことを考えだしたは、松坂の歌会で知り合った人からの質問がきっかけだったと言っているの。私は、質問者はどうも棟隆だった気がするの。確証はないけど。でもね、宣長が松坂に帰ってきて、歌会で知り合った人の中で、歌の学問「歌学」面で一番影響を受けたのがこの棟隆みたいよ。最初に『草庵集』という本を持ってきて論評しろと言ったのも彼よ。宣長も自分で写した『源氏論議』を贈呈したりしているし。
ら ん
こうやって集まって歌を詠むのね
。
和歌子
そう宣長先生は集まることが好きだったみたい。書斎で一人で考える時間も長かったけど、みんなでワイワイガヤガヤも結構多かったようね。
ら ん
それでよく勉強できたはね。頭よかったんだ。
和歌子
頭はよかったとは思うけれど、このように集まることをむしろ学問にまでつないでいける、つまり「集まる」ことを積極的に活用するところに宣長先生の学問のポイントがあるのよ。
和歌子
ところで今度は私が聞きたいのだけど、らんさんはどうしてこの絵に興味を持ったの?
ら ん
江戸時代、「集合図」とでも言うのかな、例えば俳諧だとか儒学とかで一つのグループを描くというモチーフがあったの。中でも有名なのが「芝蘭堂新元会図」(早稲田大学図書館所蔵)といって、ウニコール(一角獣)の絵を前に大槻玄沢等たくさんの蘭学者が楽しくやっている絵だけど、このような「集合図」にはまったく同時代の人を集めた場合と、時代を無視して同じ学問や流派に属する人を集めた物、更に同時代だけども実際には集まってないもの、つまり架空図もあるの。古くから「群仙図」とか。公卿や歌仙を描く画題というのはあるけど、江戸時代の中頃には随分流行したみたい。ちょっと面白いかな、調べてみようかな、なんて思ったの。
和歌子
確かに宣長先生だけでなく、あの頃の人ってよく集まるし、また「名所図絵」等図解の流行ともまんざら無関係ではないかもしれないわね。
ら ん
図解するって面白いね。
>>「明和年間本居社中歌仙像」
>>「姿は似せがたく、意は似せやすし」
>>「安波礼弁」
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