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聞けば答えが返ってくる、宣長の学問の深さに驚いたのは門人だけでない。
寛政2年(1790)4月14日、雨。躬弦は松坂で韓天寿等を訪問し、午後に鈴屋を訪れ、宣長と初めて対面する。その時の紀行『田中如真道の記』(別称『安濃の日記』)に
「十四日、甲子、けふも猶ふる、けさ中川天寿はじめて逢り、こは鳥の跡にいみじう心とめたる人にて、よき手本共あまた写しもたりといふ、昼つかたより近きわたりにあひしれる人々をとふついでに、本居宣長がりはじめてゆく、我国の古き書にたんたる翁なれば、何くれと物語するに、東の事などねもごろにとひ聞つゝ、あるじ宣長
百重山越て来て鳴郭公おもひかけきやけふの初声
むらさきに衣するらん風流士のみやびなへ(ママ)かし武蔵野の原
などいひ出たり、ならのはの古言に、心えぬ所々思ひ出てとふに、いとよくわきまへてこたふるが、露とゞこほりなければ
丈夫はうばら(荊)かうたち(棘)苅そけ(退)て たゝかし道のしるべするかも
など我もいひて、暮ちかき頃武成がりかへる」
とある。
躬弦が、「ならのはの古言」つまり『万葉集』等の言葉で疑問点があったので、思い出すままに質問したところ、宣長は大変明解に答えて少しのよどみもないので感心して歌を詠んだとある。この時の贈答歌は『石上稿』にも載る。
「四月のころ江戸の安田躬弦(ミツラ)がはじめてとぶらひ来けるに、
めつらしくきなく初音の時鳥つきて日毎に(日にけに)聞よしもかも かしこの事共語るを聞て、
紫にころもするらんみやひをのみやひなつかし武蔵のの原
百重山こえてきて鳴郭公思ひかけきやけふのはつこゑ」
(宣長全集・15-460)
また、『来訪諸子姓名住国並聞名諸子』には、「五月 一、江戸大伝馬町安田快庵」(宣長全集・248)とある。
【参考資料】
使用した『田中如真道の記』は、本居記念館本。「蒲城文庫」「四方蔵書」等の蔵書印が有る、松阪市史編さん室移管本。
>>「安田躬弦」
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