midashi_o.gif 横井千秋(ヨコイ・チアキ)

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 元文3年(1738)〜享和元年(1801)7月24日。享年64歳。門人(天明4年入門)。尾張藩重臣(700石)横井氏の三男。本姓、平。名、宏時、通称十郎左衛門。号、木綿苑、田守(宣長命名)。家督を継ぎ御用人に至る。寛政4年(1792)致仕(チシ・辞職のこと)。賀茂真淵十三回忌追慕歌集『手向草』に歌を出していることから、最初は、田中道麿に師事したと思われる。道麿が没した翌年、宣長に入門。尾張藩の漢学偏重に対して、国学をもって藩政改革を進めようと、天明7年、『白真弓』を藩に提出し、宣長を藩に迎えようとするが、成功しなかった。また、『古事記伝』刊行を支援し、最初の2帙の経費も出資した。また、宣長に『神代正語』(カミヨノマサゴト)、『古今集遠鏡』執筆を依頼した。
 このように、『古事記伝』が出版され、また『古今集遠鏡』が書かれたのは千秋のおかげである。宣長に心酔し、時には宮重大根を贈ったりしたこともある。宣長からの書簡も27通残っている。

 ところで、『古事記伝』の草稿本は巻16までが散逸した。つまり一番重要な『古事記』上巻部分が無い。どこに消えたのかいろいろ憶測は飛び交っているが、その一つに、千秋に差し上げたのではないかというのがある。
 つまり、一番大事な本が宣長の手元から離れたとすると、それは一番大事な人への寄贈以外には考えられないからだ。一番大事な人、それは何人もいるが、でも『古事記伝』について言えば、千秋以外には考えられない。
 千秋の旧蔵品の行方は不明。わずかに、幕末、嘉永5年に『直毘霊』(宣長自筆か)が刊行された時、千秋の家にあったと記され、その頃までは残っていた可能性がある。


>>「『古事記伝』の刊行」
>>「横井千秋宛書簡」



(C) 本居宣長記念館


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