平田篤胤は、夢で宣長の弟子となった人だ。弟子になった夢を見たよ、というのではない。夢の中ではあるが師弟の契りをしたのだから、私は正真正銘、宣長先生の弟子だ、と主張するのだ。同じ様だが、実はまったく違う。
本居宣長記念館に平田篤胤が春庭に出した一通の書簡が残されている。
そこには次のようなことが書かれている。
篤胤は、享和3年頃(1803・宣長没後2年目)に、宣長の『馭戎慨言』、『大祓詞後釈』を読み、その内容に、まるで夢から覚めたような心地がし、同じ時代を生きながら宣長先生に会えなかったことを悔やんでいた。すると、去年の春、夢に宣長先生が出てこられ入門を許された。その時の様子を斎藤彦麿に描いてもらい掛け物にして朝夕拝んでいる。先生は目がご不自由ということだが、どうか私を弟子にして頂きたい。それが許されるならば、学者としての名誉この上ないことだ。
宣長と篤胤の対面を「夢中対面」という。 いつ篤胤が宣長の名前を知ったのかということには諸説あるが、この書簡で見る限り、宣長没後である。
ところで、彦麿に描いてもらったという「夢中対面図」は今は所在不明。その代わり、春庭などとも親交のあった渡辺清の描いた図が残っている。
らんさんと和歌子さんの会話
|
ら ん
|
和歌子
|
 |
ら ん |
宣長さんと真淵先生の出会いもたった一晩だけ、篤胤さんは夢の中だけ。あまり先生の側で勉強しない方がいいのかもしれないですね。 |
和歌子 |
先生が立派すぎると、圧倒されると言うこともあるかもしれないけど、この二つの場合は、先生に会いたい、会いたいという気持ちの強さが、研究をしていく原動力になったのかもしれないわね。 |
ら ん |
夢で宣長先生と会った人は他にもいるのかしら。 |
和歌子 |
松坂の門人・青木茂房がやはり夢で先生に会っています。
十月十日夜師の翁の君をゆめに見たてまつりて と言う詞書で歌を詠んでいるわ。 |
|
【原文】
「今般、小田清吉と申仁、其御表江被参候に付、任幸便未得拝顔候得共、一筆啓上仕候。先以追日春暖相成候所、愈御清建に可被成御坐、珍重御儀奉存候。然者私義、弱年之砌より道之学に志御座候所、兎角聖人之道より外に無之義と僻心得仕候而、数年出情謹学仕候。然る所去々年中、始而古翁之馭戎慨言、大祓詞後釈拝見仕候而、数年之旧夢一時に相覚、其節迄所蔵仕候漢籍等は不残相払、取あへず古翁之御著書共相尋、大略は蔵書に仕候而、昼夜に拝見仕候所、誠に天地初発已来、無比之御事と深信無限奉存候、乍去御名をさへに始而承知奉り候程之義故、此地にも御弟子之御坐候事も不存、人々に相尋候而、漸此地にも和泉和麻呂主、平野芳穀ぬしなど有之候事をも存、知人と相成候而、倶に日々相励み勉学仕候、扨亦私義、古翁之御書物共拝見仕候より已来、奉欽慕候情、昼夜相止候事無御座、世にましまし候間に御名も不存、同じ時代に生合候身之、御弟子之数にも入り侍らざりし事、本意なくうらめしく、実ニ不堪悲痛存つづけ奉り候所、去春不思義にも翁に見え奉り候而、乍夢師弟之御契約申上候。是偏に私義斯計り慕へ奉り候心庭を、御霊之見そなはし賜候而之御事と、如何計如何計難有奉存候。則右夢中之事共、松平周防守様御家中斎藤彦麻呂と申仁、是は大平大人之御門人に而、古翁之御像を絵書れ候事をよく得られ候故、相頼候而掛ものに仕候而、朝暮仕奉候事に御座候、扨亦君には久々御眼病に被成御坐候由、乍遠音承知仕居候而、申上候も千万に恐入奉存候得共、已来者君之御門人之数に被召加被下候はば、学文仕候身之可為名誉大悦何事歟此上可有御坐哉、幾重にも幾重にも御承知被下候様、神以奉願上候、彼の漢人も申候如く、書は意を尽しがたく、実に心庭之百分一も難書取、余は推而御察し可座下候、委曲は小田氏へ口達相頼候通りに御坐候。先は右御願申上度、乍略義如斯御座候。恐惶謹言。
三月五日 平田半兵衛篤胤(花押)
本居健亭様
尚々、時候折角御凌被遊候様、奉存候」

「平田篤胤書簡」
|
|

「夢中対面の図」
|
>>「魂の行方」
>>「奥墓」
>>「山室山神社」
(C) 本居宣長記念館
|