midashi_b 浄土宗(ジョウドシュウ)

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 宣長の家は代々熱心な浄土宗信者。菩提寺は知恩院末寺の名刹法幢山樹敬寺。塔頭法樹院が取り次ぎを行った。曾祖父、祖父はとりわけ熱心な浄土宗信者で、帰依した様子は『家の昔物語』に詳しい。父は「父念仏者ノマメ心」(『恩頼図』)、母の実家村田家も樹敬寺の檀家で、また実兄の察然は増上寺真乗院主を勤めた高僧である。又後年のことではあるが、母も善光寺で剃髪、妹はんも30歳で出家し、末妹俊も夫死没後に剃髪する。

 このような環境下で育った宣長は、元文4年(1739)、10歳、小石川伝通院27世主・走誉上人を戒師として血脈を受け法名英笑を与えられた。その後も『円光大師伝』や「浄家名目」等の書写と、修学の中で浄土宗や樹敬寺は大きな位置を占める。延享5年(1748)、19歳の時には本山知恩院を参詣し、樹敬寺縁の通誉上人の墓に参詣。御座敷を拝見し大僧正より十念を授かる。同年七月には父の命日に南無阿弥陀仏を沓冠に歌を詠み、閏10月には樹敬寺で五重相伝を受け伝誉英笑道与を賜る。この時期の信仰については『覚』の「精進」、「日々動作勒記」に詳しい。またこの前後しばしば融通念仏、十万人講等の仏事を修している。今井田家時代については分からないが、浄土宗信仰は帰宅後も続き、京都時代友人宛書簡で「少来甚だ仏を好む」(岩崎栄令宛)とも、「不佞の仏氏の言に於けるや、これを好みこれを信じこれを楽しむ」(宝暦7年上柳敬基宛)とも言う。

 その後、『古事記』研究の深化につれ仏教信仰に変化が見られる。一つの転機として考えられるのが『直霊』執筆(42歳)頃か。但し、家の宗教としての仏事を執り行うことは以前と変わることなく、日常生活に於ける寺院との関わりにも全く変化は見られない。晩年、書斎で『浄土三部経』を読誦したというのは根拠のない説であるが、旧蔵書中には『法華経』や『浄土三部経』等仏書も混じり、仏事の際には読誦することもあったと思われる。安永6年樹敬寺住職となった法誉快遵との交友や、『遺言書』での葬儀次第、また戒名「高岳院石上道啓居士」など自ら命名するなどは樹敬寺との深い信頼関係に基づくものと言える。

【参考文献】
『宣長少年と樹敬寺』山下法亮著・昭和43年9月29日。



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