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◇ はつむま
2月の歌で引いた「雪きえて」には一つの言葉が隠されている。
「はつむま」である。
松坂、岡寺山継松寺の初午(ハツウマ・ハツムマ)は、宣長当時から、近在でも評判の大きな祭であった。例えば、宝暦8年(1758)宣長29歳の『日録』に「二月朔、初午、晴天」と書かれる。これは通常だと、「晴天、初午」となるところだが、逆転した書き方に気持ちの高ぶりが感じられる。
門人・服部中庸の『松坂風俗記』で祭の賑わいを見てみよう。
「二月 初午 いせ一ヶ国の賑ひ也。岡寺山継松寺ト云寺ノ観世音へ参詣す。大体、前日よりして、当日之夜にいたる。見せ物、軽業など、わづか両日両夜の事なれ共、小屋をかけて興行す。京、大坂、名古屋、四日市、津辺よりも、商人多くきたりて、種々の物を売。大かた一ヶ年に用ゆる料、此会式にてことたる也。一国の人皆参詣する。殊に厄年之者は猶さら也(中略)当日之昼四ツ時比より八ツ時過までは、寺内に人詰りて、老人子供などは参詣かなはず。一ト切一ト切に人数を入かへて参詣さする也。」(『本居宣長稿本全集』)
京や大坂、名古屋からも香具師が来て、一年中の買い物が全部揃う。伊勢の国中の人がやってくる。厄の人はもちろんだ。あまり人が多いので老人子どもは参詣できない。入場制限をする。まるで東京ディズニーランドだね。中庸は、紀州藩与力、つまり警察署員だ。人の集まりには目を光らせる立場にあった。
因みに、宣長さんも前厄(41歳)、本厄(42歳)、後厄(43歳)きちんと済ませている。
でもどうして岡寺に厄落としをするのか。『本居宣長随筆』「水鏡【中山内大臣忠親公作】序云、此尼ことし七十三になんなり侍る、三十三を過がたく、相人なども申あひたりしかば、岡寺はやく(厄)をてん(転)じ給ふとうけ給はりて、まうでそめしより、つゝしみのとしごとに、きさらぎのはつむまの日、まゐりつるしるしにこそ、今まで世に侍れば、今年つゝしむべきにて参りつる云々とあり、是は大和の岡寺也、松坂の岡寺も、これにならへるにや、厄おとしといひ、初午に参る事、またく同じ、又女は三十三を厄年とするも、是によし有て聞ゆ」と書いてあり、面白いことに田中道麿が「女ニハ十九ノヤクモアリ、夕顔ノ上十九也」と付箋を貼っている。名古屋から勉強にやってきた道麿さんが、先生のノートを見せてもらい、出典を書き加えたのだろう。
ノートまでチェックされるから先生も大変だ。
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平成13年、岡寺初午風景
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「岡寺初午風景。
宣長の頃の賑わいはこの比ではなかった」 |
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「岡寺初午風景。香炉周辺」
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